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劉備【りゅうび】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

劉備
りゅうび
Liu Bei; Liu Pei
[生]延熹4(161)
[没]章武3(223).4.
中国,三国時代の蜀漢先主 (在位 221~223) 。たく郡 (河北省) の人。字は玄徳。諡は昭烈帝。前漢景帝の子,中山靖王勝の子孫と称した。若いときから豪侠と交わり,関羽張飛とはこの頃から結ばれていた。黄巾の乱が起ると,その討伐に加わったが,群雄割拠の時代には一定の領土がなく,これら群雄とあるいは同盟し,あるいは離反することを繰返した。官渡の戦いで袁紹と同盟して敗れ,南下して荊州に劉表を頼った。彼はそこで諸葛亮を三顧の礼をもって迎えた。曹操が建安 13 (208) 年荊州を攻めると,彼はいったん南に逃れ,孫権と同盟,赤壁の戦いで曹操を打ち破り,荊州を確保した。同 16年曹操が漢中侵入を企てると,益州牧劉璋の要請に応じて,関羽を荊州に残してに入り,同 19年には劉璋を降伏させ,蜀を手中に収めた。しかし荊州では関羽が殺され,孫権がその地を領有した。同 25年後漢が滅びると翌年漢の跡を継いで成都に蜀漢国を建てた。翌年関羽の仇を報じるという名目でに出兵,章武3 (223) 年永安 (四川省) で病に倒れ,後事を諸葛亮に託して死んだ。

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デジタル大辞泉

りゅう‐び〔リウ‐〕【劉備】
[161~223]中国、三国時代蜀漢(しょっかん)の初代皇帝。在位221~223。字(あざな)は玄徳。諡(おくりな)は昭烈皇帝。前漢景帝の後裔という。関羽張飛らの豪傑と、軍師諸葛亮を従え、曹操孫権と覇権を争った。孫権と結んで曹操を破った赤壁の戦いは有名。221年、成都でみずから帝位に就き、国号を漢と称したが勢威振るわず、陣没した。

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世界大百科事典 第2版

りゅうび【劉備 Liú Bèi】
161‐223
中国,三国時代の蜀漢()の創建者。字は玄徳。満城漢墓で知られる前漢の中山王劉勝の子孫と称するが定かでない。涿(たく)郡涿県(河北省涿県)の地方官の家に生まれ,早く父を失い貧賤の中に育ったが,性任俠で度量ひろく,無頼の若者たちの間で頭角を現した。黄巾(こうきん)の乱が起こると,仲間の関羽張飛らを中核に部隊を作って官軍に加わり,これを契機に各地の軍閥のもとを転々として地位を高め,徐州牧に推された。やがて曹操の勢力下に入って予州牧を与えられたが,後漢朝廷の曹操暗殺計画に関わって逃亡,河北の袁紹ついで荆州の劉表のもとに身を寄せた。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

りゅうび【劉備】
161~223 中国、三国の蜀漢しよつかんの初代皇帝(在位221~223)。字あざなは玄徳、諡おくりなは昭烈皇帝、河北の人。前漢景帝の子孫。関羽・張飛らとともに黄巾の乱鎮圧に尽力。諸葛亮しよかつりようの天下三分の計により、呉の孫権と結んで魏の曹操を赤壁で破り、蜀を平定。221年成都で帝位につき国号を漢と号し、呉・魏と天下を争った。

出典:三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)

劉備
りゅうび
(161―223)
中国、三国蜀(しょく)の王(在位221~223)。(たく)郡(河北省)の人。字(あざな)は玄徳(げんとく)。諡号(しごう)は昭烈帝。前漢景帝の子、中山(ちゅうざん)王劉勝の後と称する。耳が大きく、また手を垂れると膝(ひざ)の下にまで達したという。父に早く死なれ、母と蓆(むしろ)を織って生計をたてていたという。184年、黄巾(こうきん)の乱が起こると、同郷の張飛(ちょうひ)に亡命していた関羽(かんう)らと立ち上がったが、最初は直接支配する領土をもたず、各地の豪族(公孫(さん)、陶謙(とうけん)、曹操(そうそう)、袁紹(えんしょう))などの間を転々とするありさまであった。曹操の下にあったとき、操が「天下の英雄は君と僕」といったとき、おりから雷が鳴り、備は箸(はし)を落としたという逸話がある。
 彼が最後に頼ったのは荊(けい)州の劉表であった。劉表の下にあって比較的平穏な生活を送り、髀肉(ひにく)の嘆をかこつ一面、諸葛亮(しょかつりょう)(ほうとう)といった優れた人材を招くことに成功した。とくに諸葛亮には三顧の礼をもって迎え、「自分に孔明のあるのは、魚の水あるが如(ごと)し」といい、君臣水魚の交わりを結んだ。以後亮は劉備の謀臣として、あるいは外交官として活躍をする。
 208年、孫権と同盟して、南下してきた曹操を赤壁(せきへき)の戦いで破り、天下三分の基礎を築いた。戦後荊州を呉と両分し、孫権の妹を皇后に迎えるなど、密接な関係が続いたが、やがて益州(四川(しせん))の領有をめぐって対立していった。備は211年、益州牧劉璋(りゅうしょう)の招きによって蜀の地に入り、成都を攻略して益州を領有した。孫権は曹操と結んで、荊州に残っていた関羽を殺して荊州を占領し、天下は三分された。
 219年漢中王となり、221年、後漢(ごかん)滅亡の知らせを得て成都で即位し、国号を漢(蜀漢)と称し、年号を章武と定めた。
 彼はまず関羽の仇(あだ)を討とうとして、自ら軍を率いて出陣したが、戦局は不利となり、永安(白帝城)に退き病没した。臨終に際し、「この子(後主劉禅)助ける価値がなければ、君自ら取れ」と遺言したと伝える。陵は成都にあるが、その中に設けられた諸葛亮の武侯祠(し)のほうが有名である。[狩野直
『狩野直著『諸葛孔明』(1966・人物往来社) ▽宮川尚志著『諸葛孔明』(1978・桃源社)』

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精選版 日本国語大辞典

りゅう‐び リウ‥【劉備】
中国三国時代、蜀漢の第一代皇帝(在位二二一‐二二三)。字は玄徳。諡は昭烈帝。後漢の霊帝の時、黄巾の乱に功があり、のち諸葛亮の力を得て、呉の孫権とともに、曹操の大軍を赤壁で破った。その後、後漢の滅亡を聞いて、みずから帝位につき成都を都とした。(一六一‐二二三

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