●劉歆【リュウキン】
デジタル大辞泉
りゅう‐きん〔リウ‐〕【劉歆】
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世界大百科事典 第2版
りゅうきん【劉歆 Liú Xīn】
中国,前漢末の学者。字は子駿。のち名を秀,字を頴叔と改める。沛(はい)(江蘇省沛県)の人。高祖の同父弟楚元王交の子孫,劉向(りゆうきよう)の第3子。若くして詩書に精通し,成帝のとき黄門郎となり中塁校尉にうつる。黄門郎のとき王莽(おうもう)が同僚であり以後王莽と親交がつづき,侍中,太中大夫,光禄大夫と歴任,新になると参謀として国師の地位を与えられた。成帝期に始まる宮中図書の校勘事業に父劉向と参画し,劉向の死後もそれを引きつぎ図書目録《七略》を著す。
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日本大百科全書(ニッポニカ)
劉歆
りゅうきん
(?―23)
中国、前漢末から新にかけての学者。劉向(りゅうきょう)の子。字(あざな)は子駿(ししゅん)。のち名を秀、字を穎叔(えいしゅく)と改める。幼少のころから好学の人として知られ、成帝のとき父とともに漢王室の図書整理に参加する。父の没後はこの事業を継いで『七略』を作成し完了した。『七略』そのものは亡(ほろ)んだが、『漢書(かんじょ)』芸文志(げいもんし)にそのまま取り込まれて今日に伝えられている。これは中国における経籍目録の最初のものである。歆はこの作業のなかから古文学を修得し、『左伝』『毛詩』『逸礼』『古文尚書』などを公許の学問にしようとして古文顕彰運動をおこし、今文(きんぶん)派の儒者と激しく争った。当時の実力者王莽(おうもう)は以前、ともに黄門郎として勤務したこともあり、新王朝を興してのちは、歆を重用し国師の地位を与えた。新王朝の制度は『周礼(しゅらい)』に拠(よ)っていたので、古文学者としての歆に立法その他依拠するところが大きかったからである。しかし王莽に三子を殺されたのを恨み、謀反を企てて失敗し、自殺した。『漢書』に伝記がある。
[町田三郎 2016年1月19日]
『狩野直喜著『両漢学術考』(1964・筑摩書房)』▽『板野長八「災異説より見た劉向と劉歆」(『東方学会25周年記念論集』所収・1972・東方学会)』▽『銭穆「劉向・歆父子年譜」(『燕京学報7』所収・1929・燕京大学)』
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精選版 日本国語大辞典
りゅう‐きん リウ‥【劉歆】
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