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加藤寛治【かとうひろはる】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

加藤寛治
かとうひろはる
[生]明治3(1870).10.2. 福井
[没]1939.2.9.
海軍軍人。 1891年海軍兵学校卒業。第5戦隊司令官,海軍大学校校長などを歴任後,1926~28年連合艦隊司令長官。 27年大将。 29~30年帷幄 (いあく) 上奏を行なって,ロンドン海軍軍備制限条約に強く反対した。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

加藤寛治 かとう-ひろはる
1870-1939 明治-昭和時代前期の軍人。
明治3年10月2日生まれ。戦艦三笠の砲術長として日露戦争に出征。大正10年ワシントン軍縮会議の随員となり,対米7割の強硬論を主張。15年連合艦隊司令長官。昭和4年軍令部長となり,翌年ロンドン海軍軍縮会議でも強硬論を主張して政府と対立,統帥権干犯問題をひきおこし辞職。海軍大将。昭和14年2月9日死去。70歳。越前(福井県)出身。海軍兵学校卒。

出典:講談社
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版

かとうひろはる【加藤寛治】
1870‐1939(明治3‐昭和14)
海軍軍人。福井の生れ。海軍兵学校(18期)卒業。日清戦争に従軍,日露戦争では軍艦三笠の砲術長。1921‐22年にはワシントン会議随員となり,主力艦対米比率7割を主張して加藤友三郎全権と対立した。軍令部次長,連合艦隊司令長官をへて,27年大将,29年軍令部長に就任し,30年ロンドン海軍軍縮条約調印に際して,補助艦対米比率7割を強硬に要求して浜口雄幸内閣と対立,いったん黙認態度をとったが,帷幄上奏(いあくじようそう)により不同意を表明,軍令部長を辞任した(統帥権干犯問題)。

出典:株式会社平凡社
Copyright (c) Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo. All rights reserved.

日本大百科全書(ニッポニカ)

加藤寛治
かとうひろはる
(1870―1939)

海軍大将。明治3年10月2日東京に生まれる。1891年(明治24)海軍兵学校卒業。戦艦三笠(みかさ)砲術長として日露戦争に参加する。以降、軍艦浅間(あさま)・筑波(つくば)の副長、駐英大使館付武官、筑波・伊吹(いぶき)の艦長を歴任し、海軍砲術学校校長、第五戦隊司令官、海軍大学校校長を経て1921年(大正10)ワシントン軍縮会議主席随員となった。ついで軍令部次長、横須賀鎮守府司令長官、連合艦隊司令長官を歴任、軍令部長、軍事参議官を経て1935年予備役。1930年のロンドン軍縮会議の際には、巡洋艦対米7割の線を強硬に主張し、浜口雄幸(はまぐちおさち)首相、財部彪(たからべたけし)海相と対立、統帥権擁護を主張して、ワシントン条約に反対する海軍内強硬派の中心人物として活動した。昭和14年2月9日没。

[小林英夫]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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