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加藤景廉【かとう かげかど】

デジタル版 日本人名大辞典+Plus

加藤景廉 かとう-かげかど
1156-1221 平安後期-鎌倉時代の武将。
保元(ほうげん)元年生まれ。加藤景員(かげかず)の次男治承(じしょう)4年(1180)源頼朝の挙兵にくわわり,山木兼隆を討つ。のち源範頼にしたがって平氏追討に参加。奥州攻めにも戦をたて,遠江(とおとうみ)(静岡県)浅羽荘(あさばのしょう)地頭職となるが,正治(しょうじ)2年梶原景時謀反に連座して所領を没収された。承久(じょうきゅう)3年8月3日死去。66歳。通称は加藤次。

出典:講談社
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版

かとうかげかど【加藤景廉】
?‐1221(承久3)
鎌倉前期の武士。景員の子。加藤次と称す。景員は伊勢国目代であったが,平氏との内紛により本領を去り,伊豆の狩野介茂光のもとに赴き,嘉応年中(1169‐71)勅を奉じて伊豆に拠った源為朝を討った。景廉は1180年(治承4)8月の源頼朝の挙兵に従い,山木判官兼隆を討ち,その後石橋山の戦に敗れて甲斐にのがれた。源平戦では84年(元暦1)源範頼の軍に属して西海に平氏を討った。89年(文治5)の奥州征伐では阿津賀志山の戦に功をたて,遠江国浅羽荘地頭職を恩賞として与えられた。

出典:株式会社平凡社
Copyright (c) Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo. All rights reserved.

日本大百科全書(ニッポニカ)

加藤景廉
かとうかげかど
(1143/56―1221)
鎌倉前期の御家人(ごけにん)。景員(かげかず)の子。通称加藤次(かとうじ)。藤原利仁(としひと)あるいは能因(のういん)法師の後裔(こうえい)と伝えられる。もと伊勢(いせ)国(三重県)に住したが、父とともに伊豆国(静岡県東部)に移ったという。1180年(治承4)源頼朝(よりとも)の挙兵に際しては、初め頼朝の身辺警固にあたり、ついで山木兼隆(やまきかねたか)の首をとった。以後も数々の軍功をあげ、遠江(とおとうみ)国(静岡県西部)浅羽荘(あさばのしょう)地頭職(じとうしき)や美濃(みの)国(岐阜県南部)遠山(とおやま)荘を与えられたが、1200年(正治2)梶原景時(かじわらかげとき)の謀反に連座して、所領没収となった。19年(承久1)源実朝(さねとも)の死去により出家、覚蓮房妙法(かくれんぼうみょうほう)と号す。承久(じょうきゅう)3年8月3日没。[杉橋隆夫]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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