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北畠氏【きたばたけうじ】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

北畠氏
きたばたけうじ
村上源氏,中院の流れ。鎌倉時代,通親の孫中院雅家のとき,上京 (かみぎょう) 北畠の地にちなみ,北畠と呼ばれた。南北朝時代,北畠親房とその子孫は,南朝方支柱となった。親房の子顕能が,建武2 (1335) 年伊勢国司となってから,子孫は代々国司として南伊勢を支配したが,天正4 (1576) 年具教が織田信長に殺され,滅亡した。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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世界大百科事典 第2版

きたばたけうじ【北畠氏】
鎌倉・室町時代公家三国司家の一つ。村上源氏。源通親の孫中院雅家が北畠氏を称し,その曾孫親房のとき,後醍醐天皇信任をうけ,南朝の重鎮として活躍。さらにその三男顕能は1338年(延元3∥暦応1)閏7月初めて伊勢国司に就任し,以後戦国最末年に至るまでその拠城となった一志郡多気城に拠った。2代顕信は顕能のにあたる。彼は伊勢国司に関する基本文献,斎藤拙堂の《伊勢国司記略》には触れられていないが,残存史料から見てその在職は確実である。

出典:株式会社平凡社
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日本大百科全書(ニッポニカ)

北畠氏
きたばたけうじ

鎌倉・南北朝時代の公卿(くぎょう)。姉小路(あねがこうじ)氏(飛騨(ひだ))、一条家(土佐)と並んで三国司家といわれた。村上源氏の流れで、5代源通親(みなもとのみちちか)の孫中院雅家(なかのいんまさいえ)が、京都の居住地によって北畠を家名とした。その曽孫(そうそん)親房(ちかふさ)は後醍醐天皇(ごだいごてんのう)に重用されて大いに家名をあげ、親房の子顕家(あきいえ)とともに南北朝時代に南朝の重臣として活躍し、親房は後村上天皇(ごむらかみてんのう)から准后(じゅごう)の宣を受けた。親房の子顕能(あきよし)は南朝から伊勢(いせ)国司に任じられ、一志(いちし)郡多気城(たげじょう)を築いて南朝方として活躍し、以後子孫は伊勢国司を世襲した。顕能の孫満雅(みつまさ)は、1428年(正長1)南朝の後胤(こういん)小倉宮(おぐらのみや)を奉じて挙兵し、敗死している。大河内(おおかわち)氏など一族も伊勢国内に多く、戦国末期まで勢力を維持したが、1576年(天正4)織田信長に滅ぼされた。

[熱田 公]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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旺文社日本史事典 三訂版

北畠氏
きたばたけし
中世を通じ朝廷側にあって活躍した公家の家
村上源氏の一流で,もと久我 (こが) 氏を称す。5代土御門通親 (つちみかどみちちか) の孫中院雅家 (なかのいんまさいえ) が京都の北畠に住み北畠氏を称す。その曽孫親房 (ちかふさ) ,その子顕家 (あきいえ) ・顕信は南北朝時代に南朝方の重臣として活躍。3男顕能 (あきよし) は1335年伊勢国司となり,南朝勢力の一中心をなした。南北朝の合一後も代々国司として,室町・戦国時代を通して有名。1576年具教 (とものり) が織田信長に滅ぼされた。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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