●南詔【なんしょう】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
南詔
なんしょう
Nan-zhao; Nan-chao
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デジタル大辞泉
なんしょう〔ナンセウ〕【南詔】
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世界大百科事典 第2版
なんしょう【南詔 Nán zhào】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
南詔
なんしょう
8世紀なかば中国の雲南省地方に形成された一王国。南詔(詔は王の意)は大理盆地帯に割拠していたチベット系六詔中の一詔で、唐朝の雲南経営に協力しつつ台頭し、やがて大理盆地や東方の昆明(こんめい)盆地の対立諸部族を打倒し、ついに5代目の閣羅鳳(かくらほう)は吐蕃(とばん)(チベット王国)の加勢を受けて唐の支配下からも脱して一王国を創立した(752)。次代の異牟尋(いぼうじん)はさらに吐蕃への臣服関係をも断ち切って、いまの大理市治に都を移し、国内の諸制度を整えて名実ともに南詔王国を確立した。唐、吐蕃両国が衰退期に入ると、南詔はしだいに領域を拡張して、西方は上ビルマに、南方は交州(ハノイ)に、北方は成都(四川(しせん)省)へと進出し、唐朝は防備のため大いに苦しめられた。やがて国内の権臣が台頭し、鄭(てい)氏、趙(ちょう)氏、楊(よう)氏が相次いで王位を奪い、さらに通海節度使段思平(だんしへい)が大理国を開いた(937)。
南詔王国は大理盆地と昆明盆地の白蛮(現在の白(ペー)族)系農耕社会を基盤とし、白蛮文化を中心に形成されたもので、諸制度や文物は多く唐制によっているが、チベット系のものもみられる。唐からは儒学を学び漢字を公用し、中国仏教を受容した貴族仏教も大いに栄え、建寺造仏が行われた。
[藤沢義美]
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精選版 日本国語大辞典
なんしょう ナンセウ【南詔】
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旺文社世界史事典 三訂版
南詔
なんしょう
四川から雲南にかけて6つの詔国(王国)があったが,一番南にあった蒙舎詔 (もうしやしよう) が7世紀中ごろこれらを統一し,唐に朝貢した。唐と吐蕃 (とばん) の間にあって均衡を保ち,安史の乱に乗じて四川に進出して最盛期を現出した。
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