●原水爆禁止運動【げんすいばくきんしうんどう】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
原水爆禁止運動
げんすいばくきんしうんどう
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原水爆禁止運動
(2011-07-24 朝日新聞 朝刊 3総合)
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げんすいばく‐きんしうんどう【原水爆禁止運動】
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世界大百科事典 第2版
げんすいばくきんしうんどう【原水爆禁止運動】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
原水爆禁止運動
げんすいばくきんしうんどう
原爆および水爆の製造、実験、使用の禁止と廃棄を訴える運動。第二次世界大戦(1945年8月終結)後、初めての大規模な世界平和大会が、1949年4月パリとプラハで同時に同じ議題で開かれた。その背景には、アメリカの強硬な原爆独占政策のため原子兵器の廃棄が実現しないことへの危機感があり、また1947年から顕在化した米ソ冷戦への危機感があった。その世界大会によって設置された常任委員会(1950年11月世界平和評議会と改称)は、1950年3月、スウェーデンのストックホルムでの第3回委員会において、原子兵器を無条件に禁止すること、それを保障する国際管理を確立すること、最初に原子兵器を使用する政府を戦争犯罪人として取り扱うことなどを訴える署名運動の展開を決議した。これが有名なストックホルム・アピールである。この署名運動は、同年6月に始まった朝鮮戦争を背景に、たちまち世界的な支持を得て、同年8月まででも3億、1953年までには5億(日本では645万余)の署名を集め、朝鮮戦争でのアメリカによる原爆使用を防止するとともに、後の日本の原水禁運動の源流となった。
[庄野直美]
第五福竜丸事件の衝撃
1949年9月に公表されたソ連の原爆保有は、アメリカに対する防衛的性格のものと理解されうる理由をもっていたとはいえ、現実は、ここにおいて米ソを中心とする核軍拡競争の火ぶたが切られたといえる。1952年10月イギリスも原爆実験に成功、同年11月アメリカは水爆予備実験に成功、ついで1953年8月ソ連も水爆実験に成功、さらに1954年3月1日アメリカはビキニ環礁において強力な水爆3F爆弾の実験に成功した。このときビキニ環礁の近海で操業中の日本のマグロ漁船第五福竜丸が実験による放射能の灰をかぶり、静岡県の焼津(やいづ)へ帰港したが、乗組員23人に放射線障害が現れ(1954年9月23日、久保山愛吉無線長死亡)、積んできたマグロからは強い放射能が検出された。この事件は大きなショックを国民に与え、「放射能汚染でマグロも食えない」という危機感から、核兵器の恐怖が広く国民に浸透することとなり、また、それまで閉じ込められていた広島、長崎の被爆者の声も、ようやく国民に届くようになっていく。第五福竜丸事件直後から始まった各地方自治体議会や衆参両院の原子兵器禁止決議、民間団体の運動、なかでも広島と東京都杉並区の婦人たちによる積極的な署名運動の展開などが契機となって、日本の原水禁運動はすべての政党も含む全国民的なものとなっていった。この運動は、前述の世界平和評議会とも連係をとり、やがて1955年(昭和30)8月6日歴史的な第1回原水爆禁止世界大会を広島で開催するに至った。3日間の大会には、11か国50人余の外国代表が6億6000万人の署名を担って参加、また国内からは3200万人余の署名者を代表して5000人が参加したが、これを出発点に以後毎年8月の世界大会が継続されるようになり、世界の原水禁運動の中心は日本に移った。第1回世界大会後の9月には原水爆禁止日本協議会(日本原水協)が発足し、原水禁運動と被爆者救援運動を両輪として進める方針を定めるとともに、広島、長崎をはじめ全国に地域原水禁組織がつくられていった。
[庄野直美]
政党の介入と運動の分裂
第1回世界大会は啓蒙(けいもう)的性格のものであったが、第2回以後は年とともに具体的方策を追求していった。1956年(昭和31)8月、長崎の第2回世界大会において日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が結成され、被爆者の運動も大きく前進することになり、翌1957年3月には国による被爆者医療法が公布された。1957年8月東京の第3回世界大会から国際予備会議が設けられることになった。第5回世界大会の広島開催が予定された1959年には、日米安全保障条約改定問題で国内の世論が沸騰していた。同年初頭、日本原水協は、安保改定の内容が原水爆禁止の目標に反する可能性があるとして、安保問題を世界大会の議題とする方針を決めた。しかし自民党とその同調者はこの方針を認めず、運動から離脱した。一方、安保改定に反対する大衆運動は激しさを増していったが、1960年5月自民党の単独強行採決によって新安保条約は承認された。これに対する民衆の憤激を反映して、日本原水協は東京での同年8月の第6回世界大会を「平和の敵と闘う大会」とする方針を決めた。この方針に賛同できない民社党とその同調者は、運動からの離脱を決定し、翌1961年11月には、自民党系の一部とも連携して核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議)を発足させることになる。「平和の敵・帝国主義との共同闘争を進めよう」などのことばを使用した1960年の第6回世界大会「東京アピール」の激しい内容は婦人団体や青年団体の批判も招く結果となり、日本原水協指導部の民主化を要望する声が出てきた。しかし、1961年8月の第7回世界大会の路線も前年と変わらなかったため、大会終了後、社会党、総評、日青協(日本青年団協議会)、地婦連(全国地域婦人団体連絡協議会)の4団体は日本原水協執行部の不信任を表明した。ときあたかも大会後の8月末、一方的核実験停止を3年余り実行していたソ連が実験再開を公表し、10月には50メガトンという超大型水爆の実験を行った。これを契機に日本原水協では、「いかなる国の核実験にも反対することを運動の原則とせよ」と主張する社会党系と、「社会主義国の核実験は防衛的なもので、他と同列視できない」と主張する共産党系の対立が表面化した。1962年8月5日、東京での第8回世界大会のさなかソ連が核実験を行った。激論のすえ、これに対する抗議は見送られた。以来、日本原水協における両党系の対立は異常なものとなったが、さらに1963年7月、米英ソ3国の部分的核実験停止条約仮調印が行われ、これへの評価の違いが火に油を注ぐこととなり、ついに8月の広島における第9回世界大会で社会党・総評系は離脱していった。その後、それへの同調者も加わり、1965年2月には原水爆禁止日本国民会議(原水禁国民会議)が発足した。以来、日本原水協、核禁会議、原水禁国民会議の3団体による運動が分立して進められ、政党系列を好まない独自の市民運動も芽生えていった。運動分裂の根本は、政党による介入にあったといえる。それにしても、この運動が苦難のなかで継続し、分裂後も消滅しなかったことの意義は、運動がなかったとしたときのことを考えれば明らかであろう。
[庄野直美]
新たな団結と連帯
やがて、1977年(昭和52)の夏に日本で開かれた「NGO被爆問題国際シンポジウム」を契機に、新たな運動の団結が生まれた。ヒロシマ、ナガサキ、ビキニの問題を改めて討議したそのシンポジウムは、NGO(非政府組織)軍縮特別委員会の提唱によるもので、日本準備委員会には、過去のいきさつや党派、信条の違いを超えて広範な団体や個人が結集した。この年以来、かつてのような統一組織が再生したのではないとしても、原水禁運動に連帯と統一行動がよみがえり、1978年の第1回国連軍縮特別総会(SSD)にも統一代表団を送ることができ、毎年8月に統一世界大会を開催してきた。また1981年以来、限定核戦争への危機感から、ヨーロッパでも新たな反核運動が興隆し、日本の運動との連帯が始まった。このような日本での統一世界大会は、ヒロシマ、ナガサキの被爆40周年にあたる1985年まで続いた。しかし大会運営のあり方をめぐって、日本原水協と原水禁国民会議の対立が1986年から再燃し、1987年以降の統一世界大会開催はできなくなった。以後は、原爆被爆者援護法制定を求める署名運動や被爆50周年国際シンポジウムの開催など、広範な市民が一致できる課題において、青年団や地婦連などを含む市民団体共同の取り組みが模索、実行されている。
ヒロシマ、ナガサキ、ビキニを原点とする原水禁運動の過去のさまざまな経験は、今後の運動に次のことの重要性を教えている――人間らしい心をたいせつにしない人間や組織には説得力がないこと、目的を同じくする多様な運動をおおらかに認めあうこと、軍縮と民主化のための平和教育の重要性を認識すること、核兵器は絶対悪であることを深く認識すること。
さらに原水禁運動の具体的共同目標を明記すれば、それは核兵器禁止条約を国連において実現させることである。国連は、第二次世界大戦が終結した1945年10月に発足し、1972年に生物毒素兵器禁止条約の採択、1993年に毒ガスを含む化学兵器禁止条約の採択を実現し、また現在まで国連が存続できたことに重要な意味をもっている。国連には2010年10月時点で192か国が加盟しており、世界連邦の基礎になりうるとも考えられている。この国連において核兵器禁止条約を実現できないならば、世界的環境破壊も大きく進行するであろう。すなわち核兵器廃絶は、人類共生の可能性を問う基本的問題である。これを解決するためには、世界最初の核兵器保有国であるアメリカ政府が、核兵器廃絶を決断すること、また世界で唯一の被爆国である日本の政府は、第二次世界大戦後一貫してアメリカ政府へ協力してきた立場から、核兵器廃絶をアメリカ政府に働きかけることが必要であろう。
[庄野直美]
『今堀誠二著『原水爆禁止運動』(1974・潮出版社)』▽『熊倉啓安著『原水禁運動30年』(1978・労働教育センター)』▽『広島平和教育研究所編『平和教育実践事典』(1981・労働旬報社)』▽『庄野直美著『人間に未来はあるのか』(1982・勁草書房)』▽『岩垂弘著『核兵器廃絶のうねり――ドキュメント原水禁運動』(1982・連合出版)』▽『坂本義和・庄野直美監修、岩垂弘・中島竜美解説『日本原爆論大系』全7巻(1999・日本図書センター)』▽『庄野直美著『ヒロシマは昔話か』(新潮文庫)』
出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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旺文社日本史事典 三訂版
原水爆禁止運動
げんすいばくきんしうんどう
1950年のストックホルム‐アピールによる核兵器禁止署名運動は,'54年3月1日のアメリカのビキニ水爆実験で,焼津の漁民が被災した(第五福竜丸事件)のを契機に高まり,3400万人の賛成をえた。'55年8月広島で第1回原水爆禁止世界大会が開かれ,以後毎年開かれているが,'63年の社会党の総評系と共産党との内部対立により,原水爆禁止日本国民会議(原水禁)と原水爆禁止日本協議会(原水協)とに分裂した。その後運動統一への気運が高まり,'77年両者間で統一に向けての合意がなされ,現在では原子力の利用そのものに反対する市民運動が展開されている。
出典:旺文社日本史事典 三訂版
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