●原田豊吉【はらだとよきち】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
原田豊吉
はらだとよきち
[没]1894.10.1.
黎明期の地質学者。 14歳でドイツへ留学,ハイデルベルク大学などに学び,オーストリアの地質調査所に勤務し,1883年帰国。ただちに農商務省に入り地質調査次長となり (1886) ,東京大学で化石学の講義を担当。ドイツの地質学者 E.ナウマンとの間に行われた日本の地質構造に関する論争は,ナウマン=原田論争として著名。ナウマンのフォッサマグナ説の批判に始った原田の構造論は,日本列島を千島,東北日本,西南日本,琉球などの弧状褶曲山脈の結合とみ,それぞれ対曲していると説明した。主著『日本地質構造論』 (88) ,『日本群島』 (90) 。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus
原田豊吉 はらだ-とよきち
万延元年11月21日生まれ。原田一道の長男。明治7年父にしたがってドイツへいき,ミュンヘン大などでまなぶ。帰国後,地質調査所次長,帝国大学教授。日本列島の構造について,単一説をとるナウマンのフォッサ-マグナ後生説を批判し,論争となった。明治27年12月2日死去。35歳。江戸出身。著作に「日本群島地質構造論」など。
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世界大百科事典 第2版
はらだとよきち【原田豊吉】
地質学者。江戸で岡山藩士の子として生まれた。明治維新後,父原田一道が軍人としてドイツに赴任したため,1874年ドイツに行き,基礎教育を受けた後,ザクセンのフライベルク鉱山学校で鉱山地質学を学ぶ。80年卒業後ハイデルベルク大学で岩石学を,またミュンヘン大学で古生物学を学び,82年学位を得る。次いでオーストリア地質調査所でアルプスの地質調査を行い,日本の登山界のアルプス登攀の先駆者としても名を残した。83年帰国,地質調査所に入り,翌84年東京大学講師を兼ね,86年古生物学の教授となった。
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日本大百科全書(ニッポニカ)
原田豊吉
はらだとよきち
(1860―1894)
明治前期の地質学者。幕府洋学教官の長子として江戸小石川に生まれ、大阪開成所、東京外国語学校に学ぶ。1874年(明治7)駐在武官となった父に従ってドイツに留学、フライブルク鉱山学校を卒業。ハイデルベルク大学でローゼンブッシュに岩石学を、ミュンヘン大学でツィッテルに古生物学を学んで、ルガノ湖畔の噴出岩研究で学位を取得、オーストリア地質調査所に勤めた。1883年帰国し、農商務省地質調査所に入り、翌1884年東京大学教授を兼任、日本人最初の地質学教授となる。1885年農商務省地質局次長に進み、開業時指導者ナウマン解傭(かいよう)後の地質調査事業を推進した。1889年『日本地質構造論』、1890年『日本群島』を著し、ナウマンの単一褶曲(しゅうきょく)構造説に対し、弧状山脈群対曲説を提唱、とくにフォッサマグナの解釈で論争した。1891年肺結核治療にコッホを訪ねて再渡欧し、翌1892年小康を得て帰国したが、再起できずに明治27年死去した。
[石山 洋 2018年9月19日]
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精選版 日本国語大辞典
はらだ‐とよきち【原田豊吉】
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