●古河公方【こがくぼう】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
古河公方
こがくぼう
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デジタル大辞泉
こが‐くぼう〔‐クバウ〕【古河▽公方】
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世界大百科事典 第2版
こがくぼう【古河公方】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
古河公方
こがくぼう
下総(しもうさ)古河(茨城県古河市)に拠(よ)って勢力をもった足利(あしかが)氏。足利成氏(しげうじ)とその子孫をいう。永享(えいきょう)の乱後、1449年(宝徳1)に鎌倉公方(関東公方)として迎えられた成氏は、父持氏(もちうじ)を討った上杉憲実(のりざね)の子の関東管領(かんれい)上杉憲忠(のりただ)を殺害したため、幕府の追討を受け、1455年(康正1)下総古河に逃れた。これより成氏を含め政氏(まさうじ)、高基(たかもと)、晴氏(はるうじ)、義氏(よしうじ)の5代は、ここを根拠地として活動したため古河公方とよばれた。古河公方成立当初は、北関東の豪族などの支持を得ていたことから勢力もあり、幕府より関東統治のために派遣された堀越(ほりこし)公方足利政知(まさとも)(将軍義政(よしまさ)の弟)や上杉氏らと対抗しえた。しかし後北条(ごほうじょう)氏の進出や、古河公方家の内紛で一時期古河を離れるなどの結果、しだいにその勢力は衰退していった。義氏期になると完全に後北条氏の支配下に入り、その門地により地位を保っていたが、1583年(天正11)義氏に嗣子(しし)なく古河公方家は滅亡した。1590年古河公方家の断絶を惜しんだ豊臣(とよとみ)秀吉は、義氏の娘(鴻巣(こうのす)御所)に高基の弟義明の孫国朝(くにとも)を配し、下野(しもつけ)(栃木県)喜連川(きつれがわ)(もと狐(きつね)川)に領地を与え再興した。以後この子孫は喜連川氏を称した。
[小要 博]
『『神奈川県史 通史編1 原始・古代・中世』(1981・財団法人神奈川県弘済会)』▽『『古河市史資料 中世編』(1981・古河市)』
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精選版 日本国語大辞典
こが‐くぼう ‥クバウ【古河公方】
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旺文社日本史事典 三訂版
古河公方
こがくぼう
永享の乱(1438〜39)後鎌倉に迎えられた成氏は関東管領上杉憲忠を殺し幕府の追討をうけて,1455年下総の古河(現茨城県古河市)に移り古河公方と称した。堀越公方との対立や上杉氏などとの争いで衰え,のち後北条氏の支配下に入り,1583年5代目義氏の死により滅亡した。
出典:旺文社日本史事典 三訂版
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