●吐谷渾【とよくこん】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
吐谷渾
とよくこん
Tu-yu-han; T`u-yü-hun
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デジタル大辞泉
とよくこん【吐谷渾】
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世界大百科事典 第2版
とよくこん【吐谷渾 Tǔ yù hún】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
吐谷渾
とよくこん
中国、青海地方の遊牧民族の国。南朝からは河南王に、北魏(ほくぎ)からは西秦(せいしん)王に封じられていた。王族は鮮卑(せんぴ)種の慕容(ぼよう)氏で、民衆はチベット系が主であった。五胡(ごこ)十六国の初期、原住地のシラムレン川辺を離れた鮮卑・慕容部の一支族は、羌(きょう)族、匈奴(きょうど)族などと混血しつつ、モンゴル高原から青海へと移り、西方の一大勢力となり、5世紀前半、慕(ぼかい)のときに最盛期を迎え、南北諸王朝と政治、経済、文化の各方面で密接な関係をもった。6世紀なかばには西方へ進出し、中国と西域(せいいき)間の重要な交易中継者となったが、やがて隋(ずい)の煬帝(ようだい)の大遠征を受け、一時衰えた。しかし隋末の混乱に乗じて再興した。のち、唐建立後は頻繁な交流を保っていたが、634、635両年にわたる唐の大遠征を受け、その羈縻(きび)支配(間接統治)下に入った。やがて当時チベットに興り強大化した吐蕃(とばん)のため、663年に滅ぼされた。670年、唐は吐蕃の進出に対抗し、吐谷渾の故地奪回のために遠征したが敗れ、唐は吐谷渾の遺民を涼州へ、さらに霊州へと移し、安楽州を置いた。しかしふたたび吐蕃の圧力を受け、ついには朔方(さくほう)、河東へと移り、中国内へ混入していった。
[片桐 功]
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精選版 日本国語大辞典
とよくこん【吐谷渾】
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旺文社世界史事典 三訂版
吐谷渾
とよくこん
王族は鮮卑 (せんぴ) 系,民衆の多くはチベット系とみられる。チベット人はこの国をドルグ(Drug)と呼んだ。五胡十六国時代に西方の一勢力となったが,635年唐に服属し,663年吐蕃 (とばん) に滅ぼされた。
出典:旺文社世界史事典 三訂版
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