●呂留良【りょりゅうりょう】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
呂留良
りょりゅうりょう
Lü Liu-liang
[没]康煕22(1683)
中国,清初の思想家。字は用晦,荘生。号は晩村。浙江省崇徳の出身。初め科挙を志したが,やがて民族主義者となり満州族の王朝である清の官につかず,「山林隠逸の薦」も拒否し,「博学鴻詞」に推されては僧となって拒否し (そのときの字は不昧。号は何求老人) ,朱子学を信奉し華夷の別を主張して満州人を排斥,一方では主君に対する忠誠をも説いた。文集,日記などの著書が出版され,彼の排満思想は読書人,地方官などに広く喧伝され,死後も尊敬された。その影響を受けた曾静が雍正帝によって捕えられると,帝は父の康煕帝に対する呂留良の不敬罪は許せぬとして,雍正7 (1729) 年墓をあばいて獄門とし,子の呂毅中は斬罪され一族は流刑に処された。以後その著作は発禁となったが,『呂晩村文集』『天蓋楼四書語録』『四書講義』『何求老人残稿』などが現存する (→大義覚迷録 ) 。
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世界大百科事典 第2版
りょりゅうりょう【呂留良 Lǚ Liú liáng】
中国,清代初めの学者。字は荘生または用晦。号は晩村。浙江省石門県の人。1653年(順治10),邑諸生となったが,まもなくその資格を棄て黄宗羲・黄宗炎兄弟や高斗魁らと交わり,朱子学の研究に専念した。78年(康熙17),博学鴻詞に,79年,山林隠逸に推薦されたが,ともに固辞し,ついに剃髪して僧となった。その学問は,朱子にもとづいて,華夷の別を明らかにして明王室の回復を志し,君臣間が〈義〉により結合されて臣は天下の公のために尽くしたとされる封建制度への復帰を主張するものであり,朱子学特有の理気心性については論じなかった。
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日本大百科全書(ニッポニカ)
呂留良
りょりゅうりょう
(1629―1683)
中国、明(みん)末清(しん)初の民族主義思想家。号は晩村(ばんそん)。浙江(せっこう)省石門の人。明清交代の激動期に青少年時代を送り、25歳で院試に合格したが、黄宗羲(こうそうぎ)ら明の遺老との交際を通じて激しい排満思想を育て、朱熹(しゅき)(朱子)を尊び王守仁(しゅじん)(王陽明)を否定し、その名声はすこぶる高かった。彼の没後四十数年を経た1729年、その思想に共鳴した曽静(そうせい)の排満挙兵事件が起き、このため1732年留良とその子は戮屍梟示(りくしきょうじ)(墓を暴き首を晒(さら)すこと)に付され、残った子孫も奴隷とされて呂一族は崩壊した。彼の思想の核心は華夷(かい)の別と堯舜(ぎょうしゅん)の黄金時代への復帰にあり、排満攘夷(じょうい)こそ春秋の大義であり、井田(せいでん)封建の復活によってのみ理想政治の実現が可能であるとした。
[三石善吉 2016年2月17日]
『山井湧他編『朱子学大系 第11巻 朱子の後継 下』(1978・明徳出版社)』
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