●周【しゅう】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
周
しゅう
Zhou; Chou
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デジタル大辞泉
しゅう〔シウ〕【周】


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しゅう【周】[中国の王朝]


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しゅう【周】[漢字項目]
[学習漢字]4年
1 すみずみまで行き渡る。あまねく。「周知・周到・周密」
2 まわる。まわり。「周囲・周回・周期・周年・周辺・周遊/一周・円周・外周・半周」
3 あわてる。「周章」
4 中国古代の王朝名。「周易(しゅうえき)/西周・東周」
[名のり]あまね・いたる・かた・かぬ・かね・ただ・ちか・ちかし・なり・のり・ひろし・まこと
[難読]周章(あわ)てる
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世界大百科事典 第2版
しゅう【周 Zhōu】
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しゅう【周 Zhōu】
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しゅう【周 Zhōu】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
周
しゅう
中国古代の王朝。周は西周時代(前11世紀~前771)と、東周時代(前771~前249)とに分けられるが、東周時代はほぼ春秋戦国時代にあたる。本項は西周を述べる。
[宇都木章]
概観
伝説によると、周の始祖は帝堯(ぎょう)に仕えた后稷(こうしょく)であるという。その後、周族は戎狄(じゅうてき)の間に雑居し、公劉(こうりゅう)のときに豳(ひん)(山西あるいは陝西(せんせい)省)の地に居し、古公亶父(たんぽ)(太王)に至って陝西省の岐山(きざん)の地(周原)に国都を移した。これより次王季歴(きれき)(王季)の時期にかけて、周辺の諸部族を討って発展し、文王のときには西伯と称せられ、新都を豊(ほう)(陝西省西安)に営み、殷(いん)王朝と対抗する勢力をもった。次の武王は父の志を継ぎ、呂尚(りょしょう)(姜(きょう)姓族の首長)ら諸侯を従えて、紂王(ちゅうおう)を牧野(ぼくや)に討って殷を滅ぼし、鎬京(こうけい)(陝西省西安)を首都として周王朝を建てた(その時期は紀元前12世紀後半あるいは前11世紀後半)。考古学的調査によると、陝西省岐山県付近から、周初以来の遺跡、遺物が多く発見され、周初の歴史を物語る青銅器銘文もみつかっている。また宝鶏(ほうけい)県を中心に、「先周文化」とよばれる周族早期の文化の調査も行われている。さらに殷墟前期の武丁卜辞(ぶていぼくじ)のなかに「周方」の名がみえ、周は早くから殷の西方の「国」であったことが確かめられている。周都豊・鎬京の調査も進められ、現在ほぼその位置は明らかにされたが、城郭や王陵などは未発見である。
武王は、滅ぼした殷の遺民を支配するために、紂王の子、武庚禄父(ぶこうろくほ)を封建し、さらに兄弟を諸侯として征服民を監督せしめたが、次の成王が幼少で即位し、武王の弟周公旦(たん)が摂政になると、兄弟の間に権力争いが生じ、これに武庚の反乱が加わって周室は大きく乱れた。周公は召公奭(しょうこうせき)らとともに乱を平定し、さらに東方諸部族を遠征して周室を再建し、一族・功臣を要地に封建してこれを周の藩屏(はんぺい)とし、洛邑(らくゆう)(河南省河南)を造営して東方支配の重鎮とした(成周)。近年の考古学的調査によると、周初の発展はほとんど殷の故地を覆うものであり、ことに東北は遼寧(りょうねい)省に及んでいたことが、召公一族の封ぜられた燕(えん)(匽)国の青銅器の発見によって明らかになった。
周初の文化は殷文化を受け継いだものであることも明らかになったが、それはおそらく、殷代以来の諸部族が多く周王室に職事せしめられたからであろうといわれる。
4代昭王、5代穆(ぼく)王のときは周の対外発展期で、昭王は南征して楚(そ)を討ち、穆王は西に犬戎(けんじゅう)を征し、東に徐夷(じょい)を討ったという。7代懿(い)王から9代夷王にかけて王威が衰え始め、次の厲(れい)王のときには、王室を支えていた諸侯の勢力が盛んになったうえ、厲王は卿士栄夷(けいしえいい)公を用いて悪政を行ったため、国人の反乱が生じ、王は彘(てい)(山西省霍(かく)県)に出奔したという(前841)。その後14年間、共和時代になるが、これは周公と召公の執政期とする説、あるいは諸侯が協力して政治を行ったとする説のほか、共伯和という諸侯の執政期であるともいう。前827年宣王によって周室は再興され、王はしきりに四夷を討伐したというが、この時期、諸侯の強大化はますます進んで独立化の傾向を示し、次の幽王の悪政を契機に、諸侯は離反し、周は申侯と犬戎の軍によって滅ぼされた。幽王の子、平王は東の洛邑で即位したが、王権は衰退し、諸侯が割拠する分裂時代となった。
[宇都木章]
制度
周代は邑(ゆう)制(邑土)国家の時代といわれる。王室の直接支配地(王畿(おうき))は「郷遂制度」を中心にして、郊外の地には卿大夫(けいたいふ)の采邑(さいゆう)や公邑が設置されていた。封建諸侯(貴族)は周王室を大宗(本家)として、それぞれの封地に城市(邑)を営み、これを国と称した。諸侯はこの国都を中心にして、周囲の諸邑を支配し、これを鄙邑(ひゆう)とした。国には宗廟(そうびょう)、社稷(しゃしょく)を奉ずる貴族(公、卿大夫)のほか士、農、工、商の民が住し、彼らは国人とよばれ、軍事、政治の面でも活躍していた。これに対し鄙邑の民は野人とよばれ、貴族の采邑とされたり、国都へのさまざまな義務を課せられたりした。国人も野人も血縁共同体的な集団をなしており、農民は「井田(せいでん)制」によって組織されていたと伝えられるが、しかし共同体の性格についても、「井田制」の理解についても異論が多く、したがって貢、助、徹とよばれる税制もさだかでない。西周後半期の青銅器銘文には貴族の土地所有を示すものがあるから、邑共同体を基盤にしつつ、大土地所有(私田)が展開されていたものと思われる。したがってこの邑制国家の時代が奴隷社会か、封建社会かは理解の仕方によって異なる。
[宇都木章]
文化
周代の文化は経書によって伝えられている。とくに王の詔誥(しょうこう)を収めた『書経』や、王室の雅歌や各国の歌を集めた『詩経』は重要であるが、そこでは周王は「天命」を受けて、徳をもって万民を治めるという政治的色彩の強い天の思想が展開されている。一方、数多い青銅器銘文(金文)からは西周時代のさまざまな儀礼が物語られている。また考古学的な調査研究によって青銅礼器のほか武器、車馬具、玉器、漆器、織物など優れた遺品が明らかになり、宮殿建築や墓葬の状態も解明されつつある。近年渭水(いすい)流域から出土する多くの青銅器や岐山県の宮廟跡の周代卜辞、あるいは貴族大墓の発掘は人々の注目を集めている。
[宇都木章]
『貝塚茂樹・伊藤道治著『中国の歴史1 原始から春秋戦国』(1974・講談社)』▽『天野元之助著『中国社会経済史――殷周之部』(1979・開明書院)』▽『白川静著『金文の世界――殷周社会史』(平凡社・東洋文庫)』
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精選版 日本国語大辞典
しゅう シウ【周】
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旺文社世界史事典 三訂版
周
しゅう
②南北朝時代の北朝の一国 556〜581
③唐の高宗の皇后武氏(則天武后 (そくてんぶこう) )が称した国号。690〜705
④五代の一国 951〜960
姓は姫 (き) 。陝西 (せんせい) 省岐山付近におこり,初め殷に朝貢してその先進文化を受容した。武王のとき紂 (ちゆう) 王を討ち,殷を滅ぼして建国,都を宗廟の地鎬京 (こうけい) に置いた。殷代の神権政治を脱し,封建制度を施行し,あらたに洛邑 (らくゆう) を建てて中原の経営に着手。前770年平王のとき,西の犬戎 (けんじゆう) の侵入を避けて都は洛邑に遷 (うつ) った。この東遷以前を西周,以後を東周という。その後,周室は政治的実権を失って無力化し,春秋・戦国時代の末期,秦に滅ぼされた。
通称は北周。➡ 北周
武周ともいう。➡ 武周
通称は後周 (こうしゆう) 。➡ 後周
出典:旺文社世界史事典 三訂版
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