●国共合作【こっきょうがっさく】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
国共合作
こっきょうがっさく
Guo-gong he-zuo
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朝日新聞掲載「キーワード」
国共合作
(2006-08-30 朝日新聞 朝刊 2総合)
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デジタル大辞泉
こっきょう‐がっさく〔コクキヨウ‐〕【国共合作】
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世界大百科事典 第2版
こっきょうがっさく【国共合作 Guó gòng hé zuò】
[第1次(1924年1月~27年7月)]
コミンテルンは,1920年,帝国主義との闘争において民族・植民地解放運動と同盟する戦略を決定し,中国における唯一のブルジョア革命政党,中国国民党に働きかけた。国民党の指導者孫文はソ連の援助を受け入れたが,中国共産党との合作においては党と党との提携ではなく,中国共産党員が個人として国民党に加入する党内合作の形式を要求した。
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日本大百科全書(ニッポニカ)
国共合作
こっきょうがっさく
中国国民党と中国共産党が結んだ二度の協力関係をいう。第一次(1924~27)は北方軍閥と、その背後にいる帝国主義列強に対して、第二次(1937~45)は日本帝国主義に対して統一戦線が組まれたもので、前者は国民革命(北伐)において、後者は抗日戦争において決定的役割を果たした。
[野澤 豊]
第一次
第一次国共合作は、中国共産党員の国民党への個別加入の形をとった。アジアの民族運動を重視したコミンテルンの援助を得て、孫文(そんぶん/スンウェン)は1922年から国民党の改組に着手し、広東(カントン)に革命政権を再建するとともに、これを大衆的基盤にたつ革命政党へ脱皮させようとした。成立してまもない中国共産党も、コミンテルンの指導の下に、民族革命政党との提携を決めた。24年1月の国民党一全大会で、連ソ・容共・工農扶助の三大政策が採用され、国共合作が発足した。同年秋、孫文は国民会議の開催を提唱して北上し、それに伴って労農運動は飛躍的な発展を遂げた。国民革命は進展し、北伐の過程で27年武漢に革命政権が樹立された。その間、革命勢力の内部で対立が強まり、蒋介石(しょうかいせき/チヤンチエシー)は国民党右派と結び、帝国主義列強、浙江(せっこう)財閥を背景に反革命に転じ、国民党左派や中国共産党と手を切って南京(ナンキン)政府をたて、全国制覇を目ざしたことから、新軍閥とよばれるに至った。武漢政府の崩壊後、中国共産党は右翼日和見(ひよりみ)主義を清算し、土地革命を進め、江西ソビエトを成立させて、南京政府に対抗した。そこから、10年にわたる国共内戦の勃発(ぼっぱつ)となった。
[野澤 豊]
第二次
第二次国共合作は、国共両党の対等な立場での政策協定という形をとった。国民党軍の江西ソビエトに対する包囲を脱して長征に移った中国共産党は、1935年の八・一宣言で、満州事変後に強まった日本の中国侵略に対して、抗日民族統一戦線を提唱した。同年の一二・九運動や、翌年の西安(せいあん)事件を経て、内戦停止、一致抗日の声は強まり、国民党も政策転換を余儀なくされたが、日本の先制攻撃で37年7月、日中戦争開始とともに、国共合作が具体化した。陝北(せんほく)ソビエトは辺区政府となり、紅軍は八路軍、新四軍と改称されて前線に向かった。国民党は奥地に重慶(じゅうけい)政府をたて、辺区包囲の態勢をとるようになったが、中国共産党はゲリラ戦を展開して、日本軍の背後に抗日根拠地を拡大していった。45年、このような戦線配置のまま、国共両党は太平洋戦争の終結を迎え、その生死を賭(か)けた再度の内戦に突入することになった。
内戦が決着して、1949年に中華人民共和国が成立し、国民党は台湾に政権を樹立して今日に至っているが、しだいに北京(ペキン)側からの第三次国共合作の呼びかけが強まっているのが現状である。
[野澤 豊]
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精選版 日本国語大辞典
こっきょう‐がっさく コクキョウ‥【国共合作】
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旺文社世界史事典 三訂版
国共合作
こっきょうがっさく
第1次国共合作は,孫文の提唱で,1924年国民党の改組とともに第1回全国代表大会で決定され,共産党員の国民党加入が認められた。孫文の死後,これを基盤に労農運動が発展し,1926年北伐が開始されたが,27年4月蔣介石は上海でクーデタを断行した。これと対立した武漢政府ものちに反共宣言を発し,国共分裂となった。第2次国共合作は,満州事変以後の日本の進出に対処して,共産党の八・一宣言以後,内戦停止・一致抗日の世論が高まり,1936年西安事件を契機に37年日中戦争が起こると,抗日民族統一戦線が結成された。中華ソヴィエト政府は中華民国特区政府に,紅軍は八路軍に改組し,地主の土地没収は停止した。1941年以後国共間の主導権争いが強まり,大戦終結後,国共内戦が再開された。
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旺文社日本史事典 三訂版
国共合作
こっきょうがっさく
〔第1回〈1924〜27〉〕国民党の孫文は「連ソ・容共・扶助工農」を綱領として共産党員が個人の資格で国民党に入党する形で合作を成立させた。'27年2月国民党左派と結んだ共産党が武漢政府をつくると,同年4月蔣介石は上海でクーデタを断行,共産党を弾圧して南京に国民政府を樹立。これと対立した武漢政府ものちに反共宣言を発し,国共合作は破れた。〔第2回〈'37〜46〉〕'36年の西安事件により国共停戦がなり,'37年盧溝橋事件を契機に抗日民族統一戦線が結成され,再び合作が成立した。抗日戦争中,共産党は着実に勢力を伸ばし,国民党との反目が続いたが,第二次世界大戦後内戦によって完全に分裂した。
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