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在日朝鮮人問題【ざいにちちょうせんじんもんだい】

日本大百科全書(ニッポニカ)

在日朝鮮人問題
ざいにちちょうせんじんもんだい

朝鮮人が日本に在住するようになったのは、なによりも日本による朝鮮植民地支配のもとで底辺労働者として移住・連行されたことによるが、それに引き続いて、1945年(昭和20)以降の第二次世界大戦後の日本国家が彼らを日本に封じ込める政策をとったからである。こうして、朝鮮人は祖父母・父母・子・孫の4世代にわたって、80年を超える在日の歴史をつくることになった。このように民族的出自を同じくし、韓国籍・朝鮮籍を有する者を在日朝鮮人とよぶが、1980年代以降、日本籍をもつ朝鮮人(帰化者および日朝の国際結婚の子ら)が増え、広くはこのような日本籍朝鮮人を含める。

 在日朝鮮人80年の歴史は、朝鮮人として独立し、日本人と共存することを求める歩みであるが、これに対して、日本の国家と社会は、朝鮮人を日本に同化させる反面、朝鮮人という理由で人間関係の輪から排除したり、国籍が異なることを理由に就職や社会保障などの市民的権利から排除したりする歴史を重ねてきた。このような「独立と共存」と「同化と排除」の矛盾・相克が、在日朝鮮人問題の構造的な特徴を形づくっている。

 その歴史は三つの時期に区分できる。第1期は1920年代から1945年までの25年間。在日朝鮮人が形成された植民地時代である。第2期は1945年から1970年までの25年間。民族団体が主導して民族的生活権の確保に努めた時代。第3期は1970年以降で、日本永住を選び、市民的権利の保障を求めて活動している時代である。いずれの時期においても、朝鮮人として在日を生きる民族的権利を求め、それを抑圧するときどきの日本政府の政策に異議申立てしてきた点は、変わらない。闘わなければ、日本で朝鮮人として、人間として生きていけないことを、その歴史は示している。

 このように歴史を大観すると、在日朝鮮人問題とは、日本社会が「同化と排除」という民族差別の制度と意識を克服し、「独立と共存」の生き方を認め、その制度を創出することにより真に解決される問題であることを知る。その意味では、これは日本社会を「民族共生社会」に改造する日本人問題にほかならない。

[小沢有作]

第1期=在日朝鮮人の形成

韓国併合(1910年)当時2000人にすぎなかった在日朝鮮人は、第一次世界大戦期の戦争景気のなかで底辺労働力として日本に移住し始めた同胞を迎えて、1920年(大正9)には3万人を数えた。1920年代には毎年2万人ずつ増え、1930年(昭和5)に30万人に達した。十五年戦争(1931年の満州事変から1945年の敗戦までの足掛け15年間の戦争)に突入した1930年代に入ると、一挙に毎年6、7万人ずつ増加するようになり、1938年には80万人に及んだ。このような在日朝鮮人の急増は、戦時資本が低賃金肉体労働力をより多く必要とし、それを、土地を奪われて窮乏化した朝鮮農民に求めたことによる。

 日中戦争の長期化、太平洋戦争への準備・突入による、とくに炭鉱、土木、軍需工場などにおける労働力は、日本人労働者が兵士として戦争に動員されたので、いっそう不足した。これは上記のような「自然流入」のみでは補いきれず、ために日本国家は、1939年(昭和14)、国民徴用令を朝鮮に適用した。募集方式、官斡旋(あっせん)方式、徴用方式と年々厳しい方式に切り替えて、朝鮮人を強制徴用し、日本への連行を進めた。これが強制連行の制度である。こうして労務者として日本に連行された朝鮮人青壮年は5年間に72万5000人を数えた。さらに渡日者の家族も来日して、1945年(昭和20)の敗戦直前には、在日朝鮮人は実に240万人に達した。

 在日朝鮮人の人口は、日本が戦争を起こすたびに飛躍的に増えた。ことに十五年戦争下では一気に200万人も激増した。植民地支配のみならず日本の戦争が在日朝鮮人をかくも多数つくりだしたのである。

 植民地時代の在日朝鮮人はあらわな民族差別を受けた。第一に労働において差別された。道路、鉄道、発電所工事などの「土工」、都市工場の「職工」(女子は紡績「女工」)、炭鉱・鉱山の「坑夫」が在日朝鮮人の三大職業であった。そのうえ、どの職種でも賃金は日本人労働者の約半額にすぎなかった。第二に日常生活で朝鮮蔑視(べっし)・排除に苦しんだ。1923年(大正12)の関東大震災における朝鮮人虐殺事件は日本人の朝鮮人差別意識の激発であったが、日常的にも朝鮮語訛(なま)りの日本語を揶揄(やゆ)されたり、借家を断られたりして朝鮮を卑しめられ、人間関係の輪から外された。

 このように一方では排除されながらも、他方では日本への同化と戦争への協力を強制された。子供らは日本学校に就学し、教育勅語を暗誦させられた。大人たちは協和会(1939年)に加入、協和会手帳をもたされた。1940年(昭和15)には創氏改名を強要され、朝鮮名のかわりに日本名を名のらされた。神社に参拝し、募金して飛行機を奉納した。大学生は学徒動員され、青年は軍人、軍属に動員された。天皇に忠義を尽くすことを求められたのである。

 このような排除と同化が朝鮮人差別の二大特徴であるが、こうした非民族化の圧力に抗して、朝鮮の独立を求める解放運動と、朝鮮の個性を表現する文化活動が、在日朝鮮人の間に起こされた。三・一独立運動に火をつけた1919年(大正8)の二・八独立宣言(二・八宣言)書、1920年代の北星会などの思想団体、在日本朝鮮労働総同盟などの労働団体の活動は前者の系譜に属するが、このような解放運動を公然と行えなくなった1930年代以降では、金素雲(きんそうん/キムソウン)(1907―1981)『朝鮮民謡集』、金史良(きんしりょう/キムサリャン)(1914―1950)『光の中に』、崔承喜(さいしょうき/チェスンヒ)(1913―?)の舞踊など、文学や芸術を通して朝鮮の個性を表現する活動を積極的に行った。

[小沢有作]

第2期=第二次世界大戦後の日本社会と在日朝鮮人

1945年8月(昭和20)の日本の敗戦によって植民地支配から解放された在日朝鮮人は、帰国を急いだ。しかし、日本政府はアジアからの日本人引揚者に対しては引揚援護局を設けて帰国を助けたが、在日朝鮮人の母国への引揚げ(帰国)については放置し、なんの援護策もとらなかった。そうした状況のなかにあって、在日朝鮮人はわずか半年余りのうちに約170万人が自力で船を調達して帰り、1946年3月当時65万人を数えた在留者のうち、さらに51万人が帰国を希望していた。ところが、当時の南朝鮮の政治と経済が不安定であったのに加えて、GHQ(連合国最高司令部)が持ち帰り財産を厳しく制限したので、帰国後の生活に不安を覚えた人びとは帰国を一時控え始めた。これら1946年12月までに帰らぬ人びとに対し、GHQは帰国を拒否した者と一方的にみなし、日本に凍結した。今日の在日朝鮮人は、このとき、こうして残留した者とその子や孫たちである。

 残った在日朝鮮人は、労働市場から締め出されて、日雇い、闇市(やみいち)、濁酒づくりなど苦しい生活を続けながらも、「日本国民との友誼(ゆうぎ)保全、在留同胞の生活安定、帰国同胞の便宜」を図るために、在日本朝鮮人連盟(1945年10月、略称朝連)を組織した。なかでも力を注いだのは日本各地に朝鮮学校を設立して、自らの子らに朝鮮のことばと文化と歴史を教え、朝鮮人として再生させることであった。

 しかし、占領下日本および母国の分断という二つの状況は、朝鮮人として生きることに新しい困難を課した。GHQと日本政府は、在日朝鮮人の法的地位を解放人民(外国人)ではあるが日本国民であると二重に規定し、一方では外国人であるからとして外国人登録令を適用し(1947年5月)、他方では日本国民であるとみなして、在日朝鮮人の子らに対し日本学校への就学を強制した(文部省学校教育局長通達、1948年1月)。これに基づいて、1948年3月、都道府県教育委員会は朝鮮学校閉鎖命令を発した。第一次朝鮮学校閉鎖であり、こうしてふたたびの同化教育政策が始まった。

 この間、在日朝鮮人の内部では、日本の民主主義運動に参加するか否か、南北朝鮮のどちらの民主主義を支持するかという二点で朝連と意見を異にする在日朝鮮人が、朝鮮建国促進青年同盟(1945年10月、略称建青)や新朝鮮建設同盟(1946年1月、略称建同)を結成、これらを合同して在日本朝鮮居留民団を発足させた(1946年10月、略称民団)。民団は、大韓民国創建(1948年8月15日、韓国と略称)後、その公認を得て、1948年10月在日本大韓民国居留民団と改称した(略称は同じ)。他方、朝連は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮、1948年9月9日創建を宣布)の支持を打ち出した(1948年10月)。こうして、母国の分断によって在日朝鮮人の間に二つの対立する民族団体と路線が定着した。

 朝鮮学校閉鎖に抗して、在日朝鮮人は朝連を中心にして民族教育を守る運動を展開した(阪神教育闘争)。これら朝鮮人運動に対し、日本政府は団体等規正令を適用して朝連を解散させ(1949年9月)、機動隊を動員して朝鮮学校を全面閉鎖した(第二次朝鮮学校閉鎖、1949年10月、朝鮮人学校事件)。この閉鎖によって、都立朝鮮人学校に移行した東京都を除き、在学生のほとんどは日本学校に転校させられた。在日朝鮮人の子らは同化教育を強要され、ふたたび植民地的状況に陥ったのである。

 朝鮮戦争(1950年6月~1953年7月)が起こると、解散した朝連を引き継ぐ人びとは在日朝鮮統一民主戦線をつくり(1951年1月、略称民戦)、反米・反吉田内閣・反李承晩(りしょうばん/イスンマン)の活動を続けた。一方、民団は義勇兵を送り、韓国を支援した。

 朝鮮戦争は、このように在日朝鮮人の間に分断を強めたが、それと同時に、在日朝鮮人の思いとは別に、客観的には「在日」の生活を決定的なものにした。戦中・戦後の過酷な状況にあって母国に帰れる余地はなかった。母国の肉親とのつながりも切れて、帰る手掛りも失われた。そのうえ、朝鮮人としての生活体験・生活感覚において本国との違いが大きくなり、日本生まれ・日本語育ちの二世にそれは際だってきた。サンフランシスコ講和条約(1952年4月発効)に基づく日本の独立によって、在日朝鮮人は日本国籍を失い、外国人としての法的地位を得るのであるが、これと同じ時期、生活的には日本で生活するしかなくなったのである。

 1955年5月、在日朝鮮人総連合会(略称朝鮮総連)が民戦を改組して発足、北朝鮮の在外公民として自らを位置づけ、朝鮮学校の再建、朝銀信用組合の営業などに取組み、新しい民族的活動をスタートさせた。さらに、北朝鮮への帰国運動を起こし、日・朝の赤十字社間に在日朝鮮人帰還協定を結ばしめ(1959年8月)、1967年までに8万8600人が北朝鮮に渡った。その人びとの以降の生活史の全体像は未詳であるが、なかに朝鮮人男性と結婚した日本人女性が多数含まれ、1997年11月にはじめて彼女たちの里帰りが実現した。

 1965年6月、日韓条約(日韓基本条約)が締結され、それにより在日朝鮮人の法的地位と生活に大きな変化が生じた。これは日本が韓国政府を合法政権と認め、国交を結んだ条約であるが、その結果、日韓法的地位協定が結ばれ、韓国籍を有し、永住を申請する者には協定永住権を認めることになった。これによって在日朝鮮人の法的地位は協定永住権をもつ者ともたぬ者(多くは朝鮮籍)に二分された。

 また、当時の文部省は本条約に基づいて文部次官通達を発し(1965年12月)、在日朝鮮人の子らの日本学校就学を認める反面、朝鮮学校不認可の方針を打ち出し、在日朝鮮人の民族教育に対する拒否反応をあらわにした。しかし、これを非教育的であると批判して、谷川徹三、務台理作、上原専禄らの知識人を中心に広範な日本人が在日朝鮮人と連携して民族教育を守る運動を展開した。また、東京都知事美濃部亮吉(みのべりょうきち)は、文部省の介入をはね返して、朝鮮大学校を各種学校として認可した(1968年4月)。このような支援のなかで、朝鮮学校は日本社会への定着を確かなものにした。

[小沢有作]

第3期=日本永住時代への移行

「特別永住」資格の保障

在日朝鮮人の日本永住の志向は、朝鮮生まれの一世が減り、日本生まれの二世、三世が増えるにつれて強まった。一世は本国に帰属意識があり、在日を仮住まいと考えてきたが、二世、三世の大多数は日本語で育って、本国とのつながりが薄くなり、日本永住を前提にして、在日をいかに生きるかを問うことから出発するようになった。こうした日本生まれの世代が1974年に75%に達し、以降、年々増加していった。二世、三世、さらには四世にわたるこのような生活の事実が、在日朝鮮人に日本永住を選択せしめる大きな動機をなした。

 今日、これを法的に保障するのが「特別永住」という在留資格であるが、これに至るまで半世紀近くの時を要した。法的地位の変遷をたどろう。

 サンフランシスコ講和条約締結(1951年)以前の占領中はGHQによって「日本国籍」を有する者とされたが、講和条約が成立して日本が独立すると(1952年4月)、一転して「日本国籍から離脱」して外国人とされ、「法126」という特別の在留資格を付与された。これは法律第126号(「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く外務省関係諸命令の措置に関する法律」1952年4月)の略称であり、旧植民地出身者(朝鮮、台湾)に対して「在留資格を有することなく本邦に在留」できることを定めた。

 その後、日韓法的地位協定(1965年6月)に基づいて、韓国籍の申請者に「協定永住」という在留資格を設け、認めるに至った(1980年当時35万人)。

 残された法126該当者に対しては、それから15年後、出入国管理令を一部改正して(1982年1月)、「特例永住」を認めた(おもに朝鮮籍の者、27万人)。

 これらが「特別永住」という在留資格に一本化されたのは、1991年5月の入管特例法(正式には「日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法」)においてである。1945年の解放から数えて46年。ここにようやく在日朝鮮人の法的地位が確定し、日本永住が保障されるに至った。

 これを踏まえて、民団は名称から「居留」をはずし、在日本大韓民国民団と改め(1994年)、朝鮮総連もまた日本永住の方針を定めた(1993年11月)。民団は1965年の「協定永住」以来永住を方針化していたから、民族団体において、ともに、日本永住に即した活動方針を打ち出すことになった。

 こうして、生活的にも、民族団体の方針上も、1990年代において、在日朝鮮人のほとんどが日本永住を選択し、それが在留資格としても保障されるに至った。日本永住という新しい時代に移ったのである。

[小沢有作]

在日朝鮮人の人口動態

1970年代以降の在日朝鮮人の人口動態を見よう。ここ30年間、在日朝鮮人の数は統計上65万人前後を数え、ほとんど変わらない(1975年64万7156人、1985年68万3313人、1995年66万6376人)。ただ、全外国人に占める割合は、1980年代以降、来住外国人(ニューカマー)の増加によって低下し、50%を割るに至った(1980年85%、1990年64%、1995年49%)。外国人問題に占める在日朝鮮人問題の量的な比重は減ったが、他面、来住外国人が直面している問題に早くから取組んできたので、先人としての役割を果たすべく期待されている。

 人口動態において在日朝鮮人に固有な現象が生じている。

 第一に、日本定住の結果、日本生まれ・日本育ちが大多数を占めるに至った(1974年75%、1995年95%)。これは在日朝鮮人が母国の人びととは異なる人間形成を進めていることを意味し、日本永住の動機を強めた。

 第二に、帰化する者が増えた。1980年代は毎年5000人前後を数えたが、1990年代後半からは倍増し、1995年までにほぼ20万人に達した。日本国籍を取得した帰化者は統計上在日朝鮮人の人口から省かれる。

 第三に、日本人との国際結婚が増加した。1990年代に入ると、全結婚数のうち日本人との結婚が8割を超え、在日朝鮮人同士の結婚は2割を切るようになった(1995年、夫妻とも朝鮮人18.4%、夫妻どちらかが日本人81.6%)。さらに、国籍法の改正(1985年1月)によって父母両系主義が導入され、「父または母が日本国民」の子は日本国籍を取れるようになった。また、改正国籍法は民族名による帰化を認めた。

 これら帰化者および日本籍を有する日朝の国際結婚の子らを「日本籍朝鮮人」と呼ぶ。これを「朝鮮系日本人」と別称し、今後、朝鮮系日本人が増え、特別永住者は減るだろうと予測する論者もいる。

[小沢有作]

市民的権利の追求

1970年代以降にとりわけ目だつ在日朝鮮人の活動は、市民的権利の保障を求める運動の展開であり、その担い手としての市民団体の登場である。また、文化・学問・芸術・スポーツ・医療・経済など日本社会の各分野への進出も活発化した。これらのうち朝鮮名を名のって活動している者は、市民として共生する在日朝鮮人の姿を日本人に提示すると同時に、同胞に対し在日を朝鮮人として生きることを励ましている。しかし、公民権がないため、政治活動に参加することはできない。政治的には無権利である。

 1970年代に入ると、民団、総連という民族団体に加えて、新たに「民族差別と闘う全国連絡協議会」(1974年、略称民闘連)、「在日同胞の生活を考える会」(1983年)など市民団体が発足した。これら市民団体は在日朝鮮人の市民運動のなかで結成され、その市民的権利の実現を第一義の課題としている。なお、民闘連は、神奈川民闘連を残し、在日コリアン人権協会に改組された(1995年)。

 市民的権利の保障を求める運動の口火を切ったのは、日立就職差別反対運動である。1970年12月、18歳の朴鐘碩(パクチョンソク)(1951― )は、朝鮮人であることを理由に、日立ソフトウェア(戸塚工場)から採用を取り消された。これに納得できず、日本人青年の応援を得て提訴、以降「朴君を囲む会」を中心に3年半の運動を重ね、1974年6月に朝鮮人であることを理由にした解雇は無効という勝利判決を得た。朴は入社し今日に至っているが、これが企業や公務員などへの就職をあきらめてきた在日朝鮮人青年を励まし、就職の門戸開放運動に立ち上がらせた。また、民闘連というこれらを支える市民団体を発足せしめ、民族差別をなくす市民運動の展開という新しい道を開いた。

 就職の門戸開放運動は、採用を日本国籍者に限るとする国籍条項の撤廃を第一に要求した。司法試験を通った金敬得(キムキョンドク)(1949―2005)は次なる壁になっていた司法修習生における国籍条項を廃止させ(1977年)、続いて弁理士の国籍条項が廃止された(1983年)。大阪では、高校生が立ち、電々公社(1977年、現・NTTグループ)、郵便外務員(1984年)の門戸を開放した。地方公務員においても、兵庫の高校教師らによる運動の結果、まず阪神地区の7市で一般事務、技術職の国籍条項を廃し(1973年)、これに大阪府内の各自治体が続いた(1980年)。公立学校教員採用の国籍条項も三重(1979年)、東京(1981年)と順次廃止されたが、当時の文部省はこれに常勤講師に限るという歯止めをかけた(1985年)。さらに、徐龍達(ソヨンダル)(1933― )らは、私立大学に勤める教師で成る在日韓国・朝鮮人大学教員懇談会を作り、ここを中心に運動して国公立大学外国人教員任用法を制定させ(1982年)、閉ざされてきた国公立大学の門戸を開いた。こうして1970~1980年代は就職における国籍条項をなくし、市民権を実現する大きな年代になった。

 当事者が立って国籍条項の撤廃を求める。必要となれば、提訴し、法の正義を求める。この点では、社会保障の分野における市民権実現の活動も同じであった。社会保障の適用もまた日本国籍者に限ってきた。金鉉鈞(キムヒョンジョ)(1910― )は韓国籍ゆえに国民年金から排除されたことを不当として提訴(1979年)、高裁で勝訴した(1983年)。これに国際人権規約難民条約の日本政府批准(1979年と1982年)が重なり、国民年金法から国籍条項が削除された(1982年)。同時に、児童手当三法(児童手当法、児童扶養手当法、特別児童扶養手当法)の国籍条項も削除された。また、公営住宅法や住宅金融公庫法(2007年廃止)などの国籍条項を廃し(1979年)、それまで入れなかった公営住宅に入居できるようになった。社会保障の分野では、1980年代にようやく市民権が保障されるに至った。

 さらに、在日朝鮮人は、第二次世界大戦後半世紀のあいだ、旧軍人・軍属に対する援護諸法の適用から排除されてきた。朝鮮人旧軍人・軍属24万人、戦没者2万2000人、戦傷病者10万人を数えるが(厚生省調べ)、その人びとと遺族に対する恩給法、戦傷病者特別援護法、戦傷病者戦没者遺族等援護法などは、日本国籍でないことを理由に適用されず、戦後補償がなされてこなかった。これに抗議して石成基(ソクソンギ)(1921―?)、陳石一(チンソギル)(1919―1994)、姜富中(カンプジュン)(1920― )らが提訴したが、裁判においても国籍を理由に適用外とされた(1994年)。2000年5月、ようやく、国会議員がこれらの要望を受け入れて、「国籍離脱者戦没者遺族等に対する弔慰金等支給に関する法律」を議員立法で成立させ、在日朝鮮人と台湾出身者の戦傷病者には見舞金200万円と老後生活設計支援特別給付金200万円の計400万円、戦没者の遺族には弔慰金260万円を、申請者にそれぞれ一時金として支給することにした。しかし、援護諸法から排除される点は変わらず、また日本人戦没者・遺族に対する長年にわたる援護金に較べるとあまりに少額であり、当事者の納得をえられていない。なお、従軍慰安婦への戦後補償問題についてはいまだ手がつけられていない。

 1980年代における在日朝鮮人の市民運動を特徴づけるのは指紋押捺拒否運動である。外国人登録(16歳以上、1982年までは14歳以上)に際して、指紋押捺を義務づけられてきたが、韓宗碩(ハンジョンソク)(1928― )の拒否を契機に(1980)、これを屈辱の烙印(らくいん)、差別の象徴ととらえ、集会を開き、裁判を起こし、全国行進を行い、1万人もの在日朝鮮人が押捺を拒否した。人間的尊厳をかけた偉大な不服従運動となった。これに押されて、政府は外国人登録法を改め、指紋押捺制度を廃して本人の署名と家族事項にかえ、また登録の手帳をカードに簡略化した(1992年)。

 1980年代後半には、さらに永住外国人地方参政権を求める運動が起こされた。民団や民闘連が提起し、地方議会の支持を求め(1993年の岸和田市議会が最初に決議)、これを合法と認めさせる裁判を起こした。1995年、最高裁は永住外国人の地方選挙における選挙権は違憲にあたらないと判決した。

[小沢有作]

在日朝鮮人としてのアイデンティティの形成=21世紀における課題

アイデンティティ問題の課題化

在日朝鮮人は日本永住者になった。21世紀における在日朝鮮人の生活と人生は、これを前提にして考えなければならない。そのさい、中心的な課題になるのが「在日を朝鮮人としてどのように生きるか」というアイデンティティ問題である。

 在日朝鮮人は、二世、三世、四世と代を下るにつれて、日本語を母語にし、日本文化を血液にして育つことが深くなっている。さらに、多くの者が日本名を常用している。いわば日本人として育っているのがほとんどの子らの現実である。しかし、韓国籍・朝鮮籍の子らは、遅くとも16歳になれば、外国人登録を行い、だれしもが自分が朝鮮人であることを知る。日本籍の子らも家族、親族関係を通して気づく。そう知れば、このような朝鮮との出会いを通して「在日をどのように生きるか」という問いを内発させ、さらにこれと結んで「自らをどのような人間に形成するか」という問いを意識化し、これに自答せざるをえない。だれしも朝鮮人であることを避けて自己形成を行うことはできないのである。このような同化と異化に関する自問自答は在日朝鮮人ひとりひとりにとって避けて通れぬもっとも本質的な人間的課題になっている。

 一方の答えは、日本の社会と学校の現実に従って、日本名で日本人として学び、生活する道である。無条件にこの道を歩むと、表面は日本人のように暮らすものの、心の奥底は日本社会に偏在する朝鮮差別意識に滲透(しんとう)されて、朝鮮人であることを卑下し、これを隠そうとするに至る。

 他方の答えは、民族学校に入り、同胞の輪のなかで、朝鮮名を名のり、朝鮮のことばと文化を学び、日本のことばと文化を基層に置きながらも朝鮮人としての民族アイデンティティを形成していく道である。

 現実の在日朝鮮人はこの二つのポールの間にそれぞれの位置をとり、多様に分化しているが、その位置どりに大きな影響を与えるのが、家族とならんで学校教育である。その子らは、今日、日本学校(9万人)、韓国学園(2000人)、朝鮮学校(1万8000人)という3種の学校に分かれて就学し、卒業後には、それぞれの教育に応じた人間関係を結び、生き方をとるように分かれることが多い。

[小沢有作]

在日朝鮮人としての共通教育

しかし、在日朝鮮人であるかぎり、在日朝鮮人としての境遇や受ける差別は共通し、そこから共通する思いを共有している。その1世紀近くにもおよぶ歴史を通して、今日では、母国の朝鮮人とも、あるいは日本人とも異なるところの、在日朝鮮人という一つの人間類型を形成するに至っている。

 21世紀におけるその課題は、このような歴史の共有を基盤にして、「在日朝鮮人としての共通教育」を行い、若い世代に「在日朝鮮人としてのアイデンティティ」を培うことにある。

 このような共通教育の中軸になるのは、在日朝鮮人の歴史的体験の学習と共有である。第一に、その語りや記録(歴史)や形象(芸術)を教材にして、ハラボジ、ハルモニ(祖父、祖母)から始まる歴史の学習。根ざすべき歴史の発見である。第二に、自分や家族にかかっている差別の現実に向きあうと同時に、民族的・市民的権利の実現を追求した運動史の学習。市民としての主体の形成である。第三に、本名を名のり、朝鮮人として姿を現すと同時に、同胞とつながること。朝鮮を愛することである。これらを通して、若い世代に在日朝鮮人としての自覚と生きる勇気をはぐくむことを基本とする。

[小沢有作]

民族共生教育の展開

日本の学校では、これらに加えて、朝鮮のことばや歴史、文学、音楽など朝鮮文化の入門を教えることを欠かせない。このような共通教育を目ざす日本人教師の実践は、1970年代のはじめ、兵庫の高校と大阪の小・中学校で始められた。後者(公立学校に在籍する朝鮮人子弟の教育を考える会、1971年、略称考える会)はその後広がり、全国在日朝鮮人教育研究協議会(1983年、略称全朝教)に発展した。

 このような日本学校における在日朝鮮人教育を充実させるために、当時の文部省の方針とは別個に、1970年の大阪市教育委員会「外国人教育」指針以来、近畿地方の府県市町の教育委員会が教育指針を作成するようになり、しだいに関東、東海、中国地方に広がり(たとえば、横浜市「在日外国人(主として韓国・朝鮮人)にかかわる教育の基本方針」1991年)、今日、それが100近くに達している。これは日本教育行政史上画期的なことである。

 また、朝鮮奨学会の一貫した活動がそれを支えている。朝鮮奨学会は、1957年以来民団・総連が協力する自主的な教育団体になり、自主財源に基づいて日本の高校・大学・大学院に学ぶ在日朝鮮人学生を対象に、本名による受給を条件に奨学金を支給し、今日では毎年2000人前後に達している。あわせて高校生のサマーキャンプを行ったり、学生・院生に学術講演会を開くなど、朝鮮人として生き学ぶことを励ます文化を差し出す活動を展開している。

 さらに、1972年に大阪市の長橋小学校が始めて以来、1998年現在、大阪府・市の144の小・中学校に民族学級が設置され、放課後3000人を超える在日朝鮮人生徒が同胞の講師から朝鮮文化を学んでいる。これら講師は大阪民族講師の会を結成し、学校における朝鮮文化の発信者の役割を果している。

 日本の学校では、以上のような営みを通して、自らを朝鮮人と自覚し学ぶ在日朝鮮人生徒を育てると同時に、朝鮮を知り、敬愛する日本人生徒を育てる教育が始められている。これを民族共生教育とよぶ。21世紀における日本学校はその普及を欠かせぬ課題としている。

[小沢有作]

民族学校の課題

韓国学園と朝鮮学校をあわせて民族学校と総称する。民族学校では、朝鮮人教師が朝鮮語の教科書を朝鮮語で教え、生徒もみな同胞である。生徒らは本名で呼び合い、朝鮮語を覚え、朝鮮文化を習い、朝鮮人としての民族意識を形成していく。のみならず、日本語の教科書を用いて日本の歴史や文化を学ぶ授業をおき、日本をよく知ることに努め始めている。このような教育を通して、二つのことば(バイリンガル)、二つの文化を知る在日朝鮮人青少年を育てている。これは日本学校においてはいまだ見ぬ教育の成果である。

 これら民族学校においても、母国の学校教育に連動するのみならず、日本永住の子らを育てている限り、在日朝鮮人の歴史・運動・文化の学習をカリキュラムに組み入れ、日本で朝鮮人として生きることの意味をたえず問いなおしつづけることが欠かせない。

 ただ、これら民族学校は各種学校の資格しか認められていないため、日本の高校や大学への入学資格を認められていない。また学校助成金も私学助成の10分の1ほどにすぎず、経営が苦しい。これらのハンディキャップを除去し、外国人学校としてその教育権・学習権を保障することが必要である。なお、これらは中華学校や国際学校などにおいても共通するので、広く外国人学校制度を創設し、保障することが求められている。その保障はなによりも文部科学省の責任である。

 以上のように、日本学校、韓国学園、朝鮮学校がそれぞれにあった方法で、「在日朝鮮人としての共通教育」を行い、さらに学校間の交流を深めながら、「在日朝鮮人としてのアイデンティティ」を若い世代の間に育てていくことが、在日朝鮮人および日本人にとって、これからの社会と教育の中心課題になる。その成否に、21世紀における在日朝鮮人の運命がかかっているといっても過言ではない。

[小沢有作]

『朴慶植著『朝鮮人強制連行の記録』(1965・未来社)』『小沢有作著『在日朝鮮人教育論』(1973・亜紀書房)』『姜徹著『在日朝鮮人史年表』(1982・雄山閣)』『尹健次著『異質と共存』(1987・岩波書店)』『稻富進編『ムグンファの香り』(1988・耀辞社)』『田中宏著『在日外国人・新版』(1995・岩波書店)』『朴三石著『日本のなかの朝鮮学校』(1997・朝鮮青年社)』『阪中英徳著『在日韓国・朝鮮人政策論の展開』(1999・日本加除出版)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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