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多紀元堅【たき もとかた】

美術人名辞典

多紀元堅
江戸後期の医師幕臣。江戸生。多紀元簡次男本姓丹波幼名は鋼之進、は亦柔、通称は安叔、に楽真院・楽春院・苣庭・三松等。医学館で講書しながら幕府奥医師となり、次いで法眼、のち法印に叙せられた。主な著書は『素問紹識』『雑病広要』等。安政4年(1857)歿、63才。

出典:(株)思文閣

デジタル版 日本人名大辞典+Plus

多紀元堅 たき-もとかた
1795-1857 江戸時代後期の医師。
寛政7年生まれ。多紀元簡(もとやす)の5男。幕府の奥医師。分家して矢ノ倉の多紀家と称する。「医心方」など古典医書の校訂に力をつくし,蘭方には反対した。安政4年2月14日死去。63歳。幼名は鋼之進。字(あざな)は亦柔。通称は安叔。号は茝庭。著作に「傷寒論述義」「素問紹識」など。

出典:講談社
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

多紀元堅 たき-げんけん

出典:講談社
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

多紀元堅
たきげんけん
[生]寛政7(1795)
[没]安政4(1857)
江戸時代後期の医師。字は亦柔,苣庭と号した。天保2 (1831) 年医学館講書を拝命,同6年奥詰医師,翌年奥医師,法眼となり,同 11年に法印,お匙見習,同 14 (43) 年お匙となった。『傷寒論述義』ほか多くの著書がある。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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日本大百科全書(ニッポニカ)

多紀元堅
たきげんけん
(1795―1857)

江戸時代の漢方医。多紀元簡(げんかん)の五男。字(あざな)は亦柔(えきじゅう)、茝庭(さいてい)また三松(さんしょう)と号した。幼名は綱之進、長じて安叔(あんしゅく)、のち元堅(「もとかた」とも読む)と改めた。元簡の後は三男元胤(もとたね)(1789―1827)が継ぎ、元堅は分家して矢ノ倉の多紀家と称した。1840年(天保11)法印となり、楽真院と称し、1853年(嘉永6)楽春院と改め、安政(あんせい)4年2月14日没。著書は『傷寒広要(しょうかんこうよう)』『雑病広要』『傷寒論述義』『薬治通義(やくじつうぎ)』『時還読我書(じかんどくがしょ)』『診病奇侅(しんびょうきがい)』など多く、また『備急千金要方(びきゅうせんきんようほう)』『医心方(いしんほう)』などを校刊した。

[矢数道明]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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