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大江広元【おおえのひろもと】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

大江広元
おおえのひろもと
[生]久安4(1148).京都
[没]嘉禄1(1225).6.10. 鎌倉
鎌倉幕府政所別当。式部少輔維光の子。中原広季の養子。寿永3=元暦1 (1184) 年,源頼朝に招かれて鎌倉に下向し,同年 10月6日公文所別当となり,頼朝の家政を統括し,能吏として彼の信任を得た。文治1 (85) 年 11月に守護地頭の設置をはかり,建久2 (91) 年1月政所別当,同年4月明法博士,左衛門大尉に任じられた。正治1 (99) 年,頼家が2代将軍になると,北条時政らと幕政を合議し,ここに広元と北条氏の合議体制が完成した。建仁3 (1203) 年には,時政とはかって頼家を廃し修善寺に幽閉。実朝が3代将軍となると,彼に武芸をすすめるだけでなく,三代集,聖徳太子の『十七条憲法』『小野小町盛衰図』などを献じて,文化的な面でも協力した。建保4 (16) 年大江姓に復し,翌年 11月 10日出家して覚阿と称した。実朝の死後も北条義時とはかって幕政を安泰にし,承久の乱には軍の西上を主張し,みずからは鎌倉にとどまって方策を講じたり,乱後の適切な処置をとった。元仁1 (24) 年執権義時の死後,その子泰時を執権につかせるなど,北条氏の独裁体制の確立尽力した。

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デジタル大辞泉

おおえ‐の‐ひろもと〔おほえ‐〕【大江広元】
[1148~1225]鎌倉前期の幕府重臣匡房(まさふさ)曽孫源頼朝に招かれて公文所(くもんじょ)別当となり、幕府政治の重要問題に関与守護地頭設置を献策。のち政所(まんどころ)別当。頼朝の死後は北条氏に協力。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

大江広元 おおえの-ひろもと
1148-1225 鎌倉時代の幕府官僚。
久安4年生まれ。中原広季(ひろすえ)の養子。父は大江維光(これみつ)(一説に藤原光能)。学問や法律にくわしく,源頼朝にまねかれて元暦(げんりゃく)元年鎌倉へいく。公文所,政所(まんどころ)の初代別当をつとめ守護・地頭の設置を進言。頼朝の死後は北条氏をたすけ,鎌倉幕府の基礎をつくる。明法(みょうぼう)博士。嘉禄(かろく)元年6月10日死去。78歳。号は覚阿。

出典:講談社
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書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版

おおえのひろもと【大江広元】
1148‐1225(久安4‐嘉禄1)
鎌倉前期の幕府の重臣。式部少輔大江維光の子で,明経博士中原広季の養子となり,鎌倉に下るまでは外記として文筆の職にあった。源頼朝と親しかった,同じ広季の養子親能の関係から頼朝に招かれ,1184年(元暦1)以来,幕府の公文所ついで政所の別当となり,草創期幕府の発展に力を尽くした。なかでも朝廷との折衝に重きをなし,平氏追討の時期には頼朝のを朝廷に伝える役を果たし,85年(文治1)11月には守護地頭の設置を頼朝に献策している。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

おおえのひろもと【大江広元】
1148~1225 鎌倉初期の幕府重臣。初め朝廷に仕えたが、源頼朝に招かれ公文所、のち政所まんどころの別当となる。守護地頭の設置を献策するなど幕府体制の基礎固めに尽力。頼朝の死後は北条氏とともに政務をとり、執権政治の確立に寄与。

出典:三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)

大江広元
おおえのひろもと
(1148―1225)
鎌倉幕府前期の重臣。平安時代以来の学問の家柄である大江氏の出身。明法(みょうぼう)博士中原広季(ひろすえ)の養子となり中原姓を称したが、1216年(建保4)本姓に復した。初め、京の朝廷において外記(げき)として局務に携わる中堅官僚であったが、1184年(元暦1)ごろ鎌倉に下向、幕府公文所別当(くもんじょべっとう)に就任した。91年(建久2)政所(まんどころ)開設に伴い、その別当となり、明法(みょうぼう)博士、左衛門大尉(さえもんだいじょう)、検非違使(けびいし)に任ぜられ、当時異例の人事といわれた。初期幕府政治に参画した京下り官人を代表する人物といえる。源頼朝(よりとも)の腹心として京、鎌倉をしばしば往還し、朝幕間の折衝にあたった。頼朝の死後は、北条政子(まさこ)、義時(よしとき)と協調し執権政治の基礎を築くのに努力したが、1213年和田義盛(わだよしもり)が義時の強大化に抗して兵をあげると、広元もまたその攻撃を受けた。17年病により出家し覚阿(かくあ)と称した。21年(承久3)の承久(じょうきゅう)の乱に際して、広元の長子親広(ちかひろ)は当時京都守護の任にあって後鳥羽(ごとば)上皇方にくみしたが、広元は関東にあって積極的な京都攻撃策を主張し、幕府方を勝利に導いた。嘉禄(かろく)元年6月10日痢病のため没した。[近藤成一]

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精選版 日本国語大辞典

おおえ‐の‐ひろもと【大江広元】
鎌倉幕府の重臣。大江匡房の曾孫。中原広季の養子。事務官僚として活躍。はじめ朝廷に仕えたが、源頼朝に招かれて公文所別当となり、守護、地頭の設置を進言。のち政所(まんどころ)別当。頼朝の死後は北条氏の執権政治確立に功績があった。後年出家して覚阿と号した。その子孫は諸流に分かれて関東に定着した。久安四~嘉祿元年(一一四八‐一二二五

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旺文社日本史事典 三訂版

大江広元
おおえのひろもと
1148〜1225
鎌倉初期の政治家
匡房 (まさふさ) の曽孫。1184年源頼朝の招きにより鎌倉に下り,公文所(のち政所 (まんどころ) )の初代別当(長官)となる。頼朝の信任厚く,幕府創設に尽力。守護・地頭の設置を献策したといわれる。頼朝死後は北条氏と協力して政務を行った。この間,因幡守 (いなばのかみ) ・陸奥守などを歴任

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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