●大祚栄【だいそえい】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
大祚栄
だいそえい
Da-zuo-rong; Ta-tsu-jung
[没]719
渤海国の始祖(在位 699~719)。諡,高王。その出身については高句麗人説のほかに高句麗の支配下にあった靺鞨人説もあり,また父とされる乞乞仲象は大祚栄と同一人物との説もある。668年高句麗滅亡後,唐の高句麗遺民分散政策によって営州(今日の朝陽方面)に移されたが,696年その地の契丹族が唐に反乱を起こす機に乗じて,高句麗の遺民と靺鞨族を率いて東方に走り,唐の将軍楷固らを破って 698年東牟山(今日の敦化付近)に拠って城を築き王を自称,国号を震とした。唐の北進政策を恐れていた突厥と結び対唐牽制勢力となったため,唐は懐柔策として 705年侍御史張行岌を贈り,大祚栄も唐との通交の利を知ってその子大門芸を派遣して朝貢させた。713年唐の玄宗は大祚栄に左驍衛員外大将軍忽汗州都督の名を与え,渤海郡王に封じた。以後国号を渤海と称するようになり,高句麗の故地をほぼ収め,新羅とも通交した。
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デジタル大辞泉
だい‐そえい【大祚栄】
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世界大百科事典 第2版
だいそえい【大祚栄 Dà Zuò róng】
渤海国の建国者。在位698‐719年。出身はツングース系靺鞨(まつかつ)人説と,高句麗遺民説とがある。高句麗滅亡(668)後,営州(遼寧省)に移されていたが,696年の契丹人李尽忠の反乱を機に東方に脱出して靺鞨族を統合し,唐の圧迫をはねのけて自立し,震国王と号した。のち唐が懐柔策に転換したので,朝貢関係をもつことになった。713年,唐から渤海郡王に封ぜられ,これより国を渤海と称するようになった。【愛宕 元】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
大祚栄
だいそえい
(?―719)
渤海(ぼっかい)国の建国者(在位698~719)。諡号(しごう)は高王。高句麗(こうくり)滅亡後、その遺民の一部は唐によって営州地方に移されていたが、則天武后の登場、北方の強国突厥(とっけつ)の復興、契丹(きったん)の反乱などによって、唐の東北面支配に緩みが生じたすきに、彼らは故地へ向けて東走し、自立を図った。そして唐の追討軍との戦いを勝ち抜き、ようやく698年に建国を達成した。この唐からの独立戦争のときの英雄が乞四比羽(きっしひう)、大舎利乞乞仲象(だいしゃりきつきつちゅうしょう)、大祚栄らであるが、乞四比羽は建国前に戦死した。仲象と祚栄はおそらく父子であろうが、あるいは同一人物かもしれない。大祚栄の出身については異論が多いが、かつての高句麗国時代から高句麗に帰化ないし同化していた靺鞨(まっかつ)人とみるのがもっとも妥当と思われる。則天武后後、唐と友好的関係に入ってからは唐制に倣った国づくりを目ざし、713年には玄宗(げんそう)から渤海郡王に封ぜられた。
[森安孝夫]
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精選版 日本国語大辞典
だい‐そえい【大祚栄】
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