●天安門事件【てんあんもんじけん】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
天安門事件
てんあんもんじけん
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天安門事件
(2019-06-01 朝日新聞 朝刊 1外報)
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てんあんもん‐じけん【天安門事件】


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世界大百科事典 第2版
てんあんもんじけん【天安門事件】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
天安門事件
てんあんもんじけん
中国・北京(ペキン)の天安門広場で起きた大衆反乱で、1976年の第一次天安門事件と1989年の第二次天安門事件がある。
[中嶋嶺雄]
第一次天安門事件
第一次天安門事件は中国の毛沢東(もうたくとう/マオツォートン)体制末期における大衆反乱で、文化大革命以来の「毛沢東思想」絶対化の風潮と毛沢東家父長体制への中国民衆の抵抗を示した画期的事件であった。1976年1月に周恩来(しゅうおんらい/チョウエンライ)首相が死去するや、中国では「走資派(資本主義の道を歩む実権派)」批判のキャンペーンが一斉に開始された。一方、長年、中国の革命と建設および国際的舞台における中国の威信の増大に努めた周恩来首相を追悼しようとする中国民衆の意向は抑えられ、ふたたび極左的な潮流が支配し始めた。そのような状況のなかで、故人をしのぶ清明(せいめい)節の日にあたる76年4月4日、北京の民衆は手に手に花輪やプラカードを掲げて、天安門広場の人民英雄記念碑に向かってデモ行進し、周恩来自筆の碑文が刻まれている記念碑を一種の祭壇に化してしまった。ところが、北京市当局と官憲が記念碑に捧(ささ)げられた花輪を撤去したために、翌5日、怒った大衆が反乱に立ち上がり、建物や自動車に放火するなどして一大騒乱となった。プラカードには、のちに「四人組」として逮捕された毛沢東夫人の江青(こうせい/チヤンチン)や側近の姚文元(ようぶんげん/ヤオウェンユアン)らを批判する詩も数多くみられ、明らかに毛沢東体制への反逆を意思表示したものであった。この事件は、公安当局と軍によって徹底的に弾圧され、反革命事件として処断されるとともに、党中央はその黒幕として鄧小平(とうしょうへい/トンシヤオピン)(当時、中国共産党副主席・副首相、1997年死去)の責任を追及し、4月7日、彼はあらゆる職務を剥奪(はくだつ)されてふたたび失脚していった。同時にこの事件によって華国鋒(かこくほう/ホワクオフォン)が正式に首相となった。
中国はこの年の9月、毛沢東の死を迎え、10月には北京政変によって「四人組」が逮捕されるという激動を体験したが、こうして非毛沢東化が進むなかで、1978年11月、天安門事件は「革命的行動」であったと評価が逆転した。以後、この事件は、1919年の歴史的な五・四運動になぞらえて「四・五運動」とさえよばれるようになった。
[中嶋嶺雄]
第二次天安門事件
第二次天安門事件は、1989年6月3日深夜から4日早暁にかけて天安門広場で発生した「血の日曜日事件」である。その発生日から、略して「六・四」ともよぶ。同年4月中旬の胡耀邦(こようほう/フーヤオパン)・元中国共産党総書記の死を悼む形で起こった民主化運動は、“最後の皇帝”として君臨しつつあった鄧小平の「人治」に対して「法治」を求める学生や市民の大衆運動であった。当初学生たちが中心で始められた追悼デモは民主化要求のデモに発展し、やがて広範な市民の参加を得て、広場の占拠、ハンストなどを展開した。さらに政府機関の役人、マスコミ、軍人なども参加し数万人規模でデモが繰り広げられた。この背景には、独裁的支配を強める鄧小平と長老政治に対する不満、経済開放政策が引き起こした物価高騰に対する抗議、さらに東欧諸国で進行していた民主改革の動きの影響などがあった。同年5月中旬に、当時のソ連ペレストロイカの旗手ゴルバチョフ書記長が訪中したこともあって、連日、100万規模のデモ隊が天安門広場を埋めつくした。同年5月20日には北京市に戒厳令が布告され、ついには「六・四」の武力弾圧として人民解放軍が戦車などを出動させ、学生や市民に発砲するなどして多数の死者を出した。
当時、学生側に共感した趙紫陽(ちょうしよう/チャオズーヤン)総書記は失脚し、江沢民(こうたくみん/チアンツォーミン)・上海市党委書記が後任に選ばれたが、民主化を求める学生や市民を「反革命暴乱」分子ときめつけた鄧小平ら中国当局への内外の非難は重く大きくて、中国の将来にも大きな禍根を残したといわねばならない。
[中嶋嶺雄]
『中嶋嶺雄著『北京烈烈』上下(1981・筑摩書房)』▽『中嶋嶺雄著『中国の悲劇』(1989・講談社)』
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精選版 日本国語大辞典
てんあんもん‐じけん【天安門事件】
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旺文社世界史事典 三訂版
天安門事件
てんあんもんじけん
Tienanmen Square incident
【第2次】1989年6月4日,民主化を要求し,北京の天安門広場で座り込みを続ける学生や市民を政府が武力で弾圧した事件
1976年1月に死去した周恩来追悼のために,民衆が天安門広場の人民英雄記念碑に花輪をささげた。これを北京市当局が撤去したため,怒った民衆が決起したが,鎮圧された。事件後,責任を問われた鄧小平が失脚した。また,この事件は1919年の五・四運動になぞらえ,四・五運動とも呼ばれる。
胡耀邦 (こようほう) 元総書記追悼から始まった学生運動は,市民や知識人が加わることで大きな運動に発展した。これに対し,中国政府は戒厳令を布告し,人民解放軍を動員して武力弾圧を行った。事件後,趙紫陽 (ちようしよう) 総書記が暴動を支持したとして,最高実力者である鄧小平により解任され,新総書記に江沢民 (こうたくみん) が選出された。この事件は国際的な非難を浴び,西側諸国は中国に対する経済制裁を行った。
出典:旺文社世界史事典 三訂版
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