●姚文元【ようぶんげん】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
姚文元
ようぶんげん
Yao Wen-yuan
[没]2005.12.23. 上海?
元中国共産党中央政治局委員,文芸評論家。左翼作家連盟のメンバーであった姚蓬子の子といわれるが,詳しい経歴は不明。文化大革命以前はジャーナリスト,上海作家協会理事。 1965年 11月文革の口火を切ることになった論文「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」を発表して四人組の一員となった。 1966年以降中央文革小組員として文革を指導。 1969年の共産党九全大会で中央政治局委員,1971年上海市党委員会書記。『魯迅論』などの評論も多いが,文芸評論家としてよりも文革の理論的指導者として広く知られた。 1973年8月の十全大会で中央政治局委員に再選。 1976年 10月逮捕され,1977年7月の 10期三中全会で反党集団として断罪され,党籍の永久剥奪,党内外のすべての職務の解任を決議された。 1981年1月,「林彪・江青反革命集団」裁判で懲役 20年の判決を受けた。 1996年に釈放されて上海に戻った。
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世界大百科事典 第2版
ようぶんげん【姚文元】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
姚文元
ようぶんげん / ヤオウェンユアン
(1931―2005)
中国の政治家。浙江(せっこう/チョーチヤン)省諸曁(しょき/チューチー)県に生まれる。父は左翼作家連盟のメンバーであった姚蓬子(ようほうし/ヤオポンツー)。上海(シャンハイ)の復旦(ふくたん/フタン)大学卒業後、延安(えんあん/イエンアン)に赴き、1948年中国共産党入党。上海で『文芸報』通信員、上海の新民主主義青年団幹部などになる。1956年ごろから文芸評論で活動、『魯迅(ろじん/ルーシュン)――中国文化革命の巨人』(1959)、『文芸思想論争集』(1964)などの著作を出す。1965年11月、呉晗(ごがん/ウーハン)の作品を批判した論文「新編歴史劇『海瑞罷官(かいずいひかん)』を評す」を上海の『文滙報(ぶんわいほう)』に発表、文化大革命の直接の契機となった。1966年北京(ペキン)で中央文革小組に参加、文革の理論・宣伝面での指導者となり、周揚(しゅうよう/チョウヤン)、陶鋳(とうちゅう/タオチュー)らを批判する論文を発表した。1969年党政治局員となったが、1976年「四人組」の一人として逮捕され、1981年、20年の刑を宣告された。1996年10月釈放。
[安藤彦太郎]
『片山智行訳『魯迅――中国文化革命の巨人』(1975・潮出版社)』
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