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孫文【そんぶん】

美術人名辞典

孫文
中国の政治家。広東省生。逸仙中山。初め医者であったが、革命を志し、興中会に参加。宣統3年革命の際臨時大総統に選ばれたが直ちに袁世凱に譲り、のち袁一派・軍閥派に反対し、広東地盤臨時政府を組織した。また三民主義の実に努力し国民党の基礎を固めた。中国革命象徴、国父として敬愛され続けている。民国14年(大正14・1925)歿、58才。

出典:(株)思文閣

デジタル大辞泉

そん‐ぶん【孫文】
[1866~1925]中国革命の指導者・政治家。広東(カントン)省香山の人。字(あざな)は逸仙。号、中山。初め医師となったが、革命運動に入り、1894年興中会を組織、1905年、東京で中国革命同盟会を結成し、三民主義綱領とした。辛亥(しんがい)革命で臨時大総統に就任後、政権を袁世凱(えんせいがい)に譲ったが、その独裁化に抗して第二革命を開始。1919年、中華革命党中国国民党改組、1924年、国共合作を実現し、革命推進のため広東から北京に入ったが病死した。著「三民主義」「建国方略」など。スン=ウェン。

出典:小学館
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

孫文 そん-ぶん
1866-1925 中国の革命家,政治家。
同治(どうち)5年10月6日(1866年11月12日)生まれ。1894年ハワイで反清朝の革命秘密結社興中会を組織。広州で武装蜂起に失敗し,日本に亡命。明治38年東京で中国同盟会を結成,民族・民権・民生の三民主義をかかげる。1911年辛亥(しんがい)革命がおきるとアメリカから帰国し,翌年中華民国の臨時大総統となるが,袁世凱(えん-せいがい)にゆずり辞任。以後袁の帝政運動,反動軍閥とたたかう。日本亡命中の1915年宋慶齢と結婚。1917年広東(カントン)政府を樹立,1919年中国国民党を結成,1924年第1次国共合作を実現して総理に就任。1925年3月12日死去。60歳。「国父」とよばれている。広東省出身。西医書院卒。中国語読みはスン-ウェン。字(あざな)は徳明,号は逸仙,中山など。
【格言など】革命いまだならず(遺嘱のことば)

出典:講談社
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版

そんぶん【孫文 Sūn Wén】
1866‐1925
中国の革命家,政治家。中国国民党の創設者,指導者。中華民国の創始者として国父と称された。字は逸仙,号は中山(欧米ではしばしばSun Yat‐senと呼ぶ)。広東省香山県(現,中山県)翠亨村の貧しい農家に生まれ,12歳のとき出稼ぎで成功したハワイの長兄のもとに行き,教会学校で西欧の近代教育をうけた。16歳のとき帰国,香港で洗礼を受け,広州の博済医院の付属医学校で医学を学んだ。この学校で反満秘密結社三合会の首領鄭士良(1863‐1901)と知り合った。

出典:株式会社平凡社
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

孫文
そんぶん
Sun Wen; Sun Wên
[生]同治5(1866).10.6. 広東,翠亨
[没]1925.3.12. 北京
中国の革命家。広東省香山 (現,中山) 県の人。号は逸仙,中山。少年時代ハワイに渡り,帰国後広州,ホンコンで医学を学び開業したが,秘密結社興中会を組織した。光緒 21 (1895) 年,興中会の広州蜂起以来,清朝打倒,民主主義国家樹立のための革命運動に従事,同 31年中国革命同盟会を結成,三民主義をその綱領とした。宣統3 (1911) 年の辛亥革命により,1912年1月中華民国臨時大総統に就任したが,次いで軍閥袁世凱と交代,清朝を打倒しただけで革命は失敗した。以後,軍閥政権に対し革命運動を続けたが,大衆動員,結集するに足る反帝国主義,反封建の明確な綱領を提起できず,失敗を繰返した。ロシア革命,五・四運動,中国共産党の成立を経て大衆の力に着目,24年国共合作を実施し,軍閥,帝国主義打倒を目指したが,25年北京で病死した。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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日本大百科全書(ニッポニカ)

孫文
そんぶん / スンウェン
(1866―1925)

中国革命の先覚者。共和制を創始して国父と称された。海外では、その号の逸仙(いっせん)で知られ、中国では中山の号でよばれている。

 広東(カントン)省香山(中山)県の貧しい農家の次男として生まれる。ハワイで財をなした兄、孫眉(そんび)(1854―1915)のもとに14歳のときに赴き、キリスト教系の学校に学んで、英語を通して欧米文化の基礎的知識を初歩から体得すると同時に、聖書を手にする習慣を身につけた。18歳のときに帰国して、香港(ホンコン)で洗礼を受け、広州の医学校で三合会首領の鄭士良(ていしりょう)(1863―1901)と相知った。1887~1892年香港の西医書院に在学中に革命を志し、1892年マカオ、広州で開業し、同時に反清(はんしん)運動に入った。1894年、日清(にっしん)戦争に際して、兄、孫眉らの支持の下にハワイで興中会を組織し、華僑(かきょう)や会党と組み、翌1895年10月に広州で最初の挙兵を試みるが失敗に終わっている。日本に亡命し、弁髪を切って洋装し、1896年ハワイを経てロンドンに赴いた。ロンドンで清国公使館に捕らわれたが、西医書院在学時の旧師カントリーJames Cantlie(1851―1926)らに救出され、『ロンドン被難記』を英文で著して世に知られた。イギリス滞在中に見聞を広め、欧米先進国の社会的矛盾に目覚め、後の三民主義の着想を得ている。1897年(明治30)アメリカを経て来日し、宮崎滔天(みやざきとうてん)(寅蔵(とらぞう))らと交わり、康有為(こうゆうい)らとの提携や、フィリピン独立援助を試みたが、ともに失敗し、1900年に第2回の挙兵(恵州事件)を試みたものの、同様に失敗に終わっている。

 孫文が第2回目の世界旅行を行う間に、留日学生が増加し、その革命化が進んだが、中国国内でも光復会や華興会などの革命組織が生まれていた。1905年(明治38)日露戦争も終わりに近いころ、来日した孫文は東京で革命諸派を合して中国同盟会を結成し、三民主義や革命方略を定めたが、こののち辛亥(しんがい)革命にかけて、中国中・南部の各地で10回に上る反清武装蜂起(ほうき)が反復された。この間、孫文は、第3・第4回目の世界旅行を試み、1911年10月に軍資金の募集でアメリカにいて辛亥革命の勃発(ぼっぱつ)を知り、列強の援助を期待して西欧を巡り、帰国した。臨時大総統に推されて、1912年1月1日中華民国を発足させたが、まもなく南北和議により政権を袁世凱(えんせいがい)に渡した。社会改革を志向したが、宋教仁(そうきょうじん)暗殺事件を契機とする第二革命に敗れて日本に亡命、中華革命党をたてた。宋慶齢(そうけいれい)と再婚したのも、この間のことである。第三革命で袁世凱が倒れたあとの軍閥混戦状態の下で、護法運動を起こし、三たび広州を中心に政権の樹立に努めた。幾多の挫折(ざせつ)を経て、軍閥の背後に帝国主義があり、人民と結合して反帝反軍閥の戦いを進めねばならないことを知り、ロシア革命に学んだ。1924年1月、中国国民党を改組して、中国共産党と提携(国共合作)し、労働者、農民の結集を図って、国民革命を推進することとした。11月、北上宣言を発して北上の途にのぼり、日本に立ち寄って、「大アジア主義」と題された講演を行い、国民会議を開催するため北京(ペキン)に入ったが、「革命いまだならず」と遺嘱して3月12日北京に客死した。1929年遺骸は北京近郊の西山から、南京郊外の中山陵に移葬された。

[野澤 豊 2016年3月18日]

政治思想

孫文の政治思想は三民主義をもって代表されるが、それは太平天国の革命的伝統を受け継ぎ、19世紀の自然科学(進化論)、フランスの革命思想(人民主権説)、イギリスの社会学説(ヘンリー・ジョージの単税論など)を取り入れ、中国の現実に適合させたものであり、民族の独立と、人権の尊重、および社会的平等の実現を目ざしていた。晩年には、連ソ・容共・工農扶助の三大政策へと発展を遂げ、毛沢東(もうたくとう)らはこれを新民主主義の基本理念として継承した。それは「資本の節制、耕す者が其(その)田を有す」などといった考えにも示されているように、帝国主義段階の後進国における革命理論として、とりわけ特権と独占に反対するものであった。

[野澤 豊 2016年3月18日]

『島田虔次他訳『三民主義(抄)ほか』(2006・中公クラシックス)』『藤井昇三著『孫文の研究』(1966・勁草書房)』『横山宏章著『孫文と袁世凱――中華統合の夢』(1996・岩波書店)』『野澤豊著『孫文と中国革命』(岩波新書)』『陳舜臣著『孫文』上下(中公文庫)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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精選版 日本国語大辞典

そん‐ぶん【孫文】
中国の政治家。字(あざな)は逸仙(いっせん)。号は中山。広東省出身。ハワイ、香港、ヨーロッパに留学。滞欧中「三民主義」を唱え、一九〇五年東京で中国革命同盟会総理となる。辛亥革命で臨時大総統に推されたが、袁世凱に政権を譲り、第二革命で日本に亡命して中華革命党を組織。一九一九年これを中国国民党に改称、三民主義を中心思想として革命を推進した。(一八六六‐一九二五

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旺文社日本史事典 三訂版

孫文
そんぶん
1866〜1925
中国の革命家
広東省の人。日本亡命中,中山樵 (きこり) と名のったので号を「中山」という。1899年日本に亡命し宮崎滔天・内田良平らの支援をうけ,1905年東京で中国革命同盟会を結成,'11年辛亥革命に成功し,翌年臨時大総統に就任したが,袁世凱 (えんせいがい) にその地位を奪われて日本に亡命。三民主義(民族主義・民権主義民生主義)を発展させ,国民革命への道を開いた。'19年中国国民党を結成,のち「連ソ容共」を唱え,共産党と提携し(第1次国共合作)北方軍閥の打倒をはかったが,北京で病死。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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