●安史の乱【あんしのらん】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
安史の乱
あんしのらん
An-Shi zhi luan; An-Shih chih luan
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デジタル大辞泉
あんし‐の‐らん【安史の乱】
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世界大百科事典 第2版
あんしのらん【安史の乱】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
安史の乱
あんしのらん
中国、盛唐時代に起こった安禄山(あんろくざん)、史思明(ししめい)らの反乱(755~763)。唐代の前期、後期を画する一大転機となった。
唐帝国は玄宗治下に極盛期を迎え(開元の治(かいげんのち))、内外文化を混一、開花させたが、中年を過ぎた玄宗(げんそう)は政治に倦(う)んで楊貴妃(ようきひ)への愛におぼれ、宮廷では則天武后(そくてんぶこう)朝に抑圧された貴族勢力が盛り返し、皇族出身の宰相李林甫(りりんぽ)が専権を振るった。一方、大土地所有の発展、商業資本の活動などによる均田制、租庸調(そようちょう)体制の動揺と、農民層の分解が進み、逃戸(とうこ)や社会不安が増大し、府兵制の崩壊、傭兵(ようへい)制の拡大、財政膨張による増税のための括戸(かっこ)(逃戸や隠田(おんでん)の摘発調査)と、政治的、社会的矛盾が深まっていた。
李林甫が独裁権を握ろうと辺境傭兵軍団の軍将に、蕃人(ばんじん)や下層身分出身者を登用したのに乗じて、東北辺の3節度使を兼任した安禄山は、巧みに宮廷に食い込んで大勢力となった。しかし、楊貴妃の族兄楊国忠(ようこくちゅう)が反李林甫派の中心となって林甫を追い落とし宰相となるや、禄山を敵視して謀反の企てありと中傷した。玄宗もついにこれを疑い、召還しようとしたので、禄山は反乱を決意、范陽(はんよう)(現在の北京(ペキン))で挙兵、755年11月、契丹(きったん)、鉄勒(てつろく)などの精騎8000余(名目上禄山の養子とし父子軍と称していた)を中核に、蕃漢15万(公称20万)の大軍で河北平原を南下、12月洛陽(らくよう)を占領、翌年大燕(だいえん)皇帝と称した。唐朝は20万を動員、西北より武将哥舒翰(かじょかん)を急派して潼関(どうかん)(洛陽、長安の中間)を守らせた。河北では平原太守顔真卿(がんしんけい)、常山太守顔杲卿(がんこうけい)兄弟らの地方官が禄山軍の後方を脅かし、河南では張巡(ちょうじゅん)、許遠(きょえん)らが睢陽(すいよう)城(商邱(しょうきゅう)県)を死守して禄山軍の江淮(こうわい)財源地帯への侵入を阻んだ。こうした地方官の抗戦の裏には、土豪を中心とする郷村自衛団があったといわれる。
しかし、功をあせった楊国忠は哥舒翰に洛陽奪回を厳命、唐軍は禄山軍の間者におびき出されて大敗し、756年6月潼関を突破した禄山軍は一挙に長安に殺到、玄宗や宮廷貴族は蜀(しょく)(四川(しせん))へ落ち延びた。途中、馬嵬(ばかい)駅(陝西(せんせい)省興平県)で近衛(このえ)兵の憤懣(ふんまん)が爆発し、楊国忠は殺され、帝は迫られて楊貴妃を死に至らしめた。他方、玄宗と分かれた皇太子は西方の霊武(甘粛(かんしゅく)省)で即位(粛(しゅく)宗)し、反攻を準備した。戦線拡大を阻止された禄山軍は内紛を生じ、病に冒されて統制力を失った禄山は757年、子の慶緒(けいしょ)に殺され、翌年慶緒も部下の史思明に殺され、思明が帝位についたが、これまた761年、子の朝義に殺され、反乱軍の諸将は各地に割拠するありさまとなった。粛宗は太子広平王(後の代宗)を兵馬元帥、名将郭子儀(かくしぎ)を副元帥とし、朔方(さくほう)軍および救援を申し出た回紇(かいこつ)(ウイグル)の大軍によって、長安、洛陽を奪回、追撃に移り、763年史朝義を滅ぼし、9年に及ぶ大乱は終結した。
しかし、乱中各地に配備、進駐した諸将はそのまま藩鎮(はんちん)となり、中央集権は崩れて軍事的分権化の傾向が強まり、とくに河北は長く半独立の体制をとり続けることとなった。戦火に荒廃した首都長安は、ついに打撃から立ち直れず衰微した。また軍費調達のため臨時の収奪が激増し、多くの新税が徴収されて租庸調制を変質させ、両税法への伏線が張られ、塩の専売をはじめ、財政運営面でも唐初以来の体制を一変した。以後、唐朝は、勢力を増大した蕃将の処置と、藩節度使の統制に精力の大半を費やすこととなる。
[菊池英夫]
『藤善真澄著『安禄山』(1966・人物往来社)』▽『藤善真澄著『安禄山と楊貴妃』(1972・清水書院)』
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精選版 日本国語大辞典
あんし‐の‐らん【安史の乱】
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旺文社世界史事典 三訂版
安史の乱
あんしのらん
第6代皇帝玄宗は開元の治を行って改革の実をあげたが,晩年は政治に倦み,楊貴妃を溺愛して宮廷が腐敗した。平盧 (へいろ) ・范陽 (はんよう) ・河東の3節度使を兼ねていた安禄山が,755年宰相楊国忠を除く名目で挙兵したのがこの乱の起こり。彼は華北の大半を奪って洛陽で帝位につき,国を大燕 (たいえん) と称した。玄宗は蜀に逃れ,楊貴妃・楊国忠をやく殺させ,帝位を粛宗 (しゆくそう) に譲った。ウイグル人の救援で長安・洛陽を回復したが,安禄山も第2子安慶緒に殺され,続いて史思明らが乱の指導権を握ったが,763年ごろ鎮圧された。安・史はともに中央アジアのイラン系ソグド人の出身。
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