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宗教改革【しゅうきょうかいかく】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

宗教改革
しゅうきょうかいかく
Reformation
16世紀のヨーロッパで,カトリック教会の内部に起り,プロテスタント諸教会を生み出した宗教的,政治的,社会的な変革運動。教会体制改革の動きは,すでに J.ウィクリフや J.フスの運動,また 15世紀前半の公会議運動などに現れていたが,カトリック教会の信仰のあり方に対する原理的な変革運動は,1517年 M.ルターによる「九十五ヵ条の提題」の贖宥状 (免罪符) 批判から始る。人の魂の救いにとって,律法を充足し功徳を積むための「よい行い」は無力であり,キリストの贖罪に示された神の恩寵の全面的な信仰のみによって人は罪の絆から解放される,という「福音主義」がその根本原理である。この福音主義信仰は,宗教上の真理 (教義,信条) の源泉を「神の言葉」としての聖書のみに求め,教皇の権威や教会の伝承の拘束力を認めないところから,それまでのカトリック教会体制自体を否定するものとなった。聖職者と俗人の身分的区別,聖職者の独身制,修道院制,司教裁判権,教会財産などが否定され,洗礼と,ミサに代る聖餐 (パンとワインによる) のみが新しい教会の礼典とされた。ドイツにおけるルターの改革運動と並行して,スイスでも,D.エラスムスの人文主義的教会改革理念に影響された H.ツウィングリの運動が起り,やがて J.カルバンがそれを受継いで,ジュネーブを中心に福音主義の改革運動をオランダ,スコットランド,フランスなど,ヨーロッパ各地に広めていった。宗教改革の急進派として,幼児洗礼を否定する再洗礼派の運動がスイスから起り,農民戦争などの民衆運動とも結びついたが,国家権力とプロテスタント教会の提携のもとで,この運動は弾圧された。トリエント公会議で近代カトリシズムを確立した「反宗教改革」運動は,福音主義に対抗しつつカトリック教会が行なった自己刷新である。

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デジタル大辞泉

しゅうきょう‐かいかく〔シユウケウ‐〕【宗教改革】
教団や信仰共同体の教義・組織を改革したり、その本源に復帰することによって再形成を図ろうとしたりすること。
16世紀のヨーロッパで展開された一連のキリスト教改革運動。1517年、ルターが「九五か条の意見書」を発表し、信仰のよりどころを聖書にのみ求めてローマ教皇免罪符販売と教会の腐敗とを攻撃したことに始まり、たちまち全ヨーロッパに波及して、多くの紛争をひき起こした。
[補説]曲名別項。→宗教改革

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監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
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しゅうきょうかいかく【宗教改革】[曲名]
原題、〈ドイツ〉Reformationメンデルスゾーン交響曲第5番。ニ短調。1830年作曲。宗教改革300年を記念とする作品。

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デジタル大辞泉プラス

宗教改革
ドイツの作曲家フェリックス・メンデルスゾーンの交響曲第5番(1830)。原題《Reformation》。宗教改革300年を記念して作曲された。

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世界大百科事典 第2版

しゅうきょうかいかく【宗教改革 Reformation】
宗教改革は,16世紀前半,ヨーロッパのキリスト教,それもローマ・カトリックの教界内部でおこった神学,教義,典礼,教会体制の全般にわたる変革運動である。中世いらい,キリスト教はヨーロッパの社会,政治,文化,思想など,生活の諸分野と密接に結びつき,これを深く規定していたため,この変革と,それを通じて成立したプロテスタンティズムは,ルネサンスと並んで,近代ヨーロッパ世界の形成にとって,重要な意義をもつこととなった(図1,図2)。

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大辞林 第三版

しゅうきょうかいかく【宗教改革】
1517年ドイツのルターが九十五箇条の論題を発表し、教皇レオ一〇世の免罪符(贖宥状)販売を攻撃したのをきっかけに、一六世紀の西ヨーロッパに展開された宗教運動。人は信仰によってのみ救われ、聖書のみが神の国を示すと主張して、制度・教理の両面からローマ教皇の権威を否定し、ローマカトリック教会(旧教)から分離してプロテスタント教会(新教)を設立。各都市に多くの宗教改革者が輩出、近世の社会変動と呼応して、近代ヨーロッパ社会成立の画期となった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

宗教改革
しゅうきょうかいかく
Reformation 英語 ドイツ語
Rformeフランス語
中世カトリック教会を分裂させ、プロテスタント諸教会を樹立させた16世紀の教会改革をさす。
 中世カトリック教会は、14世紀の教会の大分裂(シスマ)によって普遍的権威を失い、ボヘミアではフスによる教会改革をつきつけられていた。コンスタンツ公会議(1414~1418)はシスマの解決=教会全体の統一とフスの処理に一応成功したが、教会全体の改革には失敗した。その後、神学者、神秘主義者をはじめ各方面から改革要求が提示されたが、カトリック教会は世俗的栄華・権勢を求め、教義の形骸化、聖職者の腐敗を改められなかった。
 ルターに始まる16世紀の宗教改革は、新しい信仰原理に基づく改革を図ったが、結果的にキリスト教会を分裂させ、プロテスタント教会を樹立させることになった。この宗教改革運動は、カルバンの登場により新展開をみて、ヨーロッパ各地に広がってゆく。そのころヨーロッパの主要各国では、中央集権的国家が形成されつつあり、この形成過程に宗教改革運動は繰り込まれざるをえなかった。各国の政治事情によってその展開様相はさまざまな変化をみせるが、国王権力の絶対化に貢献する場合もあれば、国の独立運動の思想的主柱になったり、良心の自由を生み出し、近代化に貢献する側面もみられた。[森田安一]

ルターの改革

カトリック教会は、救いに至る道が秘蹟(ひせき)のなかにあるとし、とくに悔悛(かいしゅん)の秘蹟が人間を贖罪(しょくざい)に導く出発点とみなしていた。その贖罪は善行によって獲得されるが、それを容易化するために、贖宥状(しょくゆうじょう)が考案されていた。1515年、教皇レオ10世はローマのサン・ピエトロ教会の建設のために贖宥を告示し、ドイツでの贖宥状販売を許した。「箱の中へ投げ入れられた金がチャリンと鳴るや否や、魂が煉獄(れんごく)から飛び上がる」(『九十五か条の論題』27条)と誇大宣伝をされて売りまくられた。ルターは、人々が贖宥状を購入することによって、あらゆる罰と罪責から解放され、確実に救済される、と信じたことに宗教的危機を感じた。金銭による贖宥状の購入という安易な行為には、「悔い改め」というキリスト者の基本的行為がまったく無視されていたからである。宗教改革運動の引き金となった『九十五か条の論題』(1517)は、ローマによるドイツの財政的搾取を問題としただけではなく、新しい信仰原理の提示であった。その第1条において、ルターはキリストが「信ずる者の全生涯が悔い改めであることを欲した」とし、第36条では、真実の痛悔が「罰と罪責よりの完全赦免」であると主張した。さらに、第28条では救済は「ただ神の御心にのみかかっている」と主張した。人はただ信仰によってのみ義とされ(義認説)、その信仰のよりどころは聖書以外にない(聖書主義)とする確信である。この確信は、さらに万人司祭主義を引き出す。『ドイツ国民のキリスト教貴族に与う』(1520)において、ルターは「すべてのキリスト者は真に教会的身分に属し、相互の間に職務上の区別以外になんの差別もない」とし、神と人との仲介者としての特別な身分特権をもった聖職者階層の存在を否定した。こういった根源的な主張は、カトリック教会体制の土台を崩すことになった。1519年にカトリック神学者エックと行ったライプツィヒ討論会において教皇の教義上の権威と公会議の無謬(むびゅう)性を否定し、1520年には教皇の破門脅迫状を公然と焼却し、1521年にはウォルムス国会(帝国議会)における皇帝カール5世の面前での審問にも信念を変えず、帝国追放処分刑を受けた(ウォルムス勅令)。このような信念に基づくルターの英雄的行為は、ドイツ国民の各身分、階層に支持され、改革運動は国民的運動に展開するかにみえた。しかし、帝国追放刑を受けたルターは、彼の国主ザクセン選帝侯フリードリヒ賢侯の保護を受け、ワルトブルク城に一時身を隠してしまった。
 選帝侯の保護とは裏腹に、国民各階層はこのころよりルターの教説を独自に解釈し、ルターから離反することになった。ルターのお膝元(ひざもと)であったウィッテンベルクでは、1521年カールシュタットが教会慣習の具体的変革を目ざし、いわゆるウィッテンベルク騒擾(そうじょう)を引き起こした。1522年にはジッキンゲンに率いられた帝国騎士が「騎士の乱」を起こし、1524年には農民戦争(ドイツ農民戦争)が勃発(ぼっぱつ)した。農民たちは村落による牧師の任免権、十分の一税の廃止、農奴制の廃止、諸負担の軽減、共有地の確保などを、聖書を盾に要求して、蜂起(ほうき)した。当初、ルターは農民の要求を全面的には否定しなかった。部分的には農民の肩をもち、領主側に譲歩を求め、仲裁裁定的解決を提案していた。しかし、ミュンツァーがチューリンゲン地方の農民を率いて、社会体制の変革を目ざしていると気づくと、農民の徹底的弾圧を諸侯に呼びかけた。『反乱を起こす霊の持ち主についてザクセン諸侯へ』(1524)ではミュンツァーの暴動的性格を説き、『農民の殺人、強盗団に抗して』(1525)では領主たちを鼓舞激励して反乱農民の徹底的殺戮(さつりく)を唱えさえした。農民たちの主張、行動は、霊的事柄と世俗的事柄の混同にあり、両者の明確な区別のうえにたてられたルターの世界観に反していたからである。
 ルターは、1525年には人文主義者の雄エラスムスともたもとを分かった。「人文主義なくして宗教改革なし」といわれるように、当初人文主義者はルターを支持し、共同戦線を張っていた。しかし、ルター破門が確定するころより、人文主義者たちは、ルターを支持する者とカトリックにとどまる者とに分かれていったが、エラスムスの『自由意志論』(1524)、それにこたえたルターの『奴隷意志論』(1525)の応酬によって両者は決定的に離別した。このように国民各階層がルターの改革運動から離脱すると、改革運動は領邦諸侯と緊密に結び付いていった。
 ドイツ農民戦争後の混乱を収拾するために開催された1526年のシュパイエル国会において、「一般公会議あるいは国民会議の開催まで」という条件付きではあるが、諸侯は「神と皇帝に対し責任がとれるものと期待し、確信するように、自らで生活し、統治し、事態を処理すべき」という決議がなされた。この決議に基づいて、ルター派諸侯は領内の宗教的整備に積極的に取り組んだ。ザクセン選帝侯領内では『巡察者のための訓令』(1527)を発布し、ルター派神学者のなかから巡察者を任命し、領内の宗教、教育事情を視察させて、宗教的統一を図った。この巡察教会制度は、宗教的統一を通じて同時に領内の政治的安定を確保することももくろまれ、事実上の領邦教会体制の樹立につながっていった。以降、宗教改革は領邦諸侯に主として担われて展開をみる。[森田安一]

ツウィングリの改革

ドイツの宗教改革は、ルターの個性とその思想を抜きにしては語れない。しかし、彼の思想を伝えた群小の改革者を無視しても成り立たない。なかでも南ドイツに大きな影響を与えたスイスの宗教改革者ツウィングリは注目に値する。彼は都市チューリヒにおける宗教改革を完成したが、以前にはスイス人文主義の流れにたつ人物であった。エラスムスに強く共鳴し、キリスト教的人文主義の立場から聖書中心主義を唱え、「キリスト教再生」を考えていた。ツウィングリは、「私たちの地方の人が誰(だれ)もルターの名を聞くはるか以前の1516年に、私はキリストの福音(ふくいん)を説教し始めました」と主張し、ルターとは別個に信仰による義認を再発見して改革に取り組んだことを強調している。ルターの影響を無視できないとしても、エラスムスの「キリスト教再生」の立場を絶対的に必要な宗教改革の前段階と彼がみなしていたことは明らかである。ルターとエラスムスの決定的な対立を知った現代からではなく、1520年前後の時代にたって宗教改革と人文主義の関係をみるとき、両者の濃密な関係を否定することはできないであろう。
 また、ツウィングリの改革方式は、都市の市民的、政治的伝統に適合的であった。「都市は宗教改革運動の母体、本来的な社会基盤とみなさねばならない」(メラー)と説かれているが、チューリヒの宗教改革は、都市における最初の成功例であった。したがって、チューリヒの改革方式は他の諸都市の見習うところとなった。その改革方式は、公開討論会方式といえるものである。都市は領邦諸侯の場合とは異なり、縦の支配関係ではなく、横の仲間的団結に基づく政治が基本軸であった。宗教改革を実施する場合にも、たてまえのうえでは市民の総意に基づいてという仲間的関係にのって行われる必要があった。それを実現する方式が、公開討論会である。都市の政治を決定する拡大市参事会の面前で多数の聖職者、神学者、学識者を集めて改革の可否を聖書に照らして討論させ、その討論の経過、結論を受けて、拡大市参事会が都市内の秩序と平和維持を図りつつ改革を決める方式である。これは、まさに万人司祭主義の原理を実現し、カトリック教会から自立して俗人たる市民も参加して改革を推進できる方式でもあった。しかし、いったん結論が引き出されると、都市当局者は改革者と協力して上からの改革統一を図って新教会を樹立していった。この方式は、南ドイツ、スイスの諸都市に導入され、都市の宗教改革が進展した。
 一方、改革者と都市当局者とが手を携えた形で改革が行われることに不満を抱き、徹底的な改革を速やかに行うべきことを主張する人々が現れた。ツウィングリを取り巻くチューリヒの若い知識人たちが徹底した聖書主義と急進的改革とを求めて始めたこの運動は、悔悛(かいしゅん)した者たちのしるしとして再洗礼(成人洗礼)を実施して、再洗礼派運動としてまたたくまに都市民衆や農民戦争敗北後の鬱屈(うっくつ)した状況にいた農民の心をとらえていった。南ドイツではフートHans Hut(1490ころ―1527)、フープマイアーBalthsar Hubmaier(1480ころ―1528)などの活躍が注目されるが、伝播(でんぱ)する過程で神秘主義、千年王国思想などの影響を受けてさまざまな傾向が生まれた。しかし、この運動はカトリック、プロテスタント両派の諸侯、都市当局に一致して弾圧された。典型的な例としてミュンスター千年王国事件(1533~1535)があげられる。[森田安一]

宗教改革の政治化

宗教改革は、民衆的性格を弱めるにつれて、政治的闘争の色を濃くしていった。ツウィングリは「キリスト教都市同盟」を結成し、カトリック勢力に対抗した。ルター派諸侯の雄であったヘッセン方伯フィリップPhilipp von Hessen(1504―1567)は、プロテスタントの政治的大同盟結成を図り、そのために1529年にルター、ツウィングリらの神学者をマールブルクに会合させ、神学的一致を達成させようとした。この試みは失敗したが、皇帝カール5世は1530年にアウクスブルクに国会を開催して、宗教分裂の解決に乗り出してきた。ルターは帝国追放刑の身で公式の場に姿を現せなかったので、彼の片腕メランヒトンが「アウクスブルク信仰告白」をまとめ、帝国議会に提出した。カトリックとの教義上の相違をできる限り少なくした努力のかいもなく、皇帝の回答はローマ教会への復帰命令であった。このウォルムスの勅令の再実施により、1531年5月15日までにローマに服するように勧告が出された。この危機に直面してルター派諸侯は「シュマルカルデン同盟」を結んで政治的に結集し、軍事的に皇帝とカトリック諸侯に抵抗する構えを示した。カトリック側も、1538年に「ニュルンベルク同盟」を結成し、結局シュマルカルデン戦争が勃発するに至った。
 1546年にルターが死亡し、プロテスタント諸侯の武力の中心者であったザクセン侯モーリッツの裏切りもあって、プロテスタント側は敗北した。皇帝は1548年に「仮信条協定」を帝国法として発布したが、部分的妥協を示していたとはいえ、信仰による義認を認めなかったので、「仮信条協定」はプロテスタント側にも評判の悪いものであった。しかし、プロテスタント側の衰微は甚だしく、皇帝は勝利に酔った。ところが、勝利の勢いにのって、息子のフィリップを帝位継承者に選ばせ、スペインとドイツを恒久的に結合させようとするに及んで、カトリック諸侯も反皇帝の姿勢をみせた。このような状況のなかで、モーリッツは再度寝返り、新教側にたって皇帝を攻撃した。皇帝軍は敗北し、1555年にアウクスブルクの和議を締結するに至った。この結果、領邦君主はカトリックかルター派かのどちらかの宗派を選び、それを臣下に強制する権利が認められた。帝国都市は、両派併存が認められ、どちらか一方に決めることは許されなかった。しかし、その場合でもツウィングリ派、カルバン派、再洗礼派を選ぶ信仰の自由はなかった。[森田安一]

カルバンの改革

ルター、ツウィングリの改革が、結局は国家教会体制の樹立に終わったのに対して、カルバンによるジュネーブの宗教改革が新しい型の改革を展開した。彼は、都市ジュネーブにとってはよそ者であり、市民的、都市政治的伝統の外にたっていた。ツウィングリのように都市当局との癒着状態はおきず、生涯を通じて都市当局と緊張、対立関係を維持した。カルバン神学の特徴である教会(宗教)と国家(政治)の分離、区別の外的条件がここにあった。そのうえに、彼の神学思想が作用した。彼は自律的教会訓練、「不品行者を教会から除外、または治癒、矯正する方策」を教会に確保することに心血を注ぎ、教会政治の職制としての「長老制」を確立させた。それにより、市民は厳しい公共道徳を要求され、市民生活の隅々まで厳格な規律が求められた。これはカルバンの予定説教義の一側面でもあった。人間の救いは神が予定しており、人間は神の道具にしかすぎないという考えである。神に選ばれ、救いに予定されていれば、市民生活も当然に神の意にかなう規律正しいものであり、隣人愛に燃え、徹底して隣人に尽くすはずだという前提である。カルバン思想の集大成である『キリスト教綱要』(1536年、決定版は1559年)は神の聖なる教えとして市参事会によって認められ、ジュネーブの宗教改革は確立をみた。
 一方、カルバンの教えはおもに新興市民層、中産的生産者層に担われて各国に広まり、スコットランドではプレズビテリアンズ(長老派)、イングランドではピューリタン(清教徒)、フランスではユグノー、オランダではゴイセンとよばれる教派を形成した。カルバン派の勢力より優勢な宗派が存在したこれらの国々では、彼らは「神の道具」意識に基づき、積極的な行動主義をとった。能動的抵抗運動を展開し、信仰の自由のために、あるいは民族運動と結合し国の独立のために戦い、ヨーロッパ近世の歴史を動かした。フランスからの独立運動と絡んだスコットランドの宗教改革は、ノックスに指導された。彼は、亡命中にカルバンを知り、故郷にカルバン的宗教改革をもたらし、自ら『スコットランド信仰告白』を起草した。オランダでは、スペインの過酷な支配から独立する運動と宗教改革運動とが結合した。1566年、カルバン派の教会会議は蜂起(ほうき)を支持し、血みどろの戦いが行われた。北部地方はユトレヒト同盟に結集して、あらゆる信仰強制に対する抵抗が誓われ、最終的にカルバン派の厳しい教会規律が打ち立てられ独立も達成した。フランスでは、宗教改革は王権と貴族の政治闘争に完全に巻き込まれた。1572年のサン・バルテルミーの虐殺(2万~5万人)にもかかわらず、ユグノー教徒は貴族と同盟し、教会の組織化も着実に進めていった。1598年のナントの王令で、改革派教会もしばらく容認されることになった。[森田安一]

イギリスの宗教改革

イギリスの宗教改革の発端は、宗教的要素よりも政治的要素や国王の離婚問題にあり、他国とは異なった経過をたどった。チューダー朝第2代目の国王ヘンリー8世は、1521年にルター批判の書『七秘蹟(しちひせき)の確立』を著し、教皇から「信仰の擁護者」の称号を受けるほどであったが、王后キャサリンとの離婚を教皇に許可されなかったため、一転してローマ教会からの分離を宣言した。いわゆる宗教改革議会(1529~1536)を開催し、多数の反ローマ的議会立法を成立させた。1534年には「国王至上法」(首長令)を制定して、国王は「イギリス教会の地上における最高の首長」となった。教会組織面では、カトリック教会から分離してイギリス国教会(イングランド教会)が成立したが、教義や儀式面では「六か条法」(1539)に典型的に見られるようにカトリック的であった。しかし、次王エドワード6世の治世には、「アウクスブルク信仰告白」を規準とした「四十二か条信仰告白」(1553)が定められ、「一般祈祷書(きとうしょ)」(1552)により、母国語による統一的な礼拝様式も定められた。クランマーの手によって教義のプロテスタント化が行われたのである。ところが、エドワードが早世し、ヘンリー8世に離婚させられたキャサリンの娘メアリー1世が1553年に登位すると、ふたたびカトリック化が行われた。メアリーは、スペインのフェリペと結婚する(1554)と、異端取締法を復活させ、クランマーら高位聖職者を含め多数の者を処刑し、「血に飢えたメアリー」とあだ名された。
 次のエリザベス1世は、中間の道を選び、イングランド教会(イギリス国教会)を確立させた。1559年に「国王至上法」と「礼拝統一法」を制定したが、前者はヘンリー8世のときと同様に教会に対する王権の優位が定められている。しかし、今度の場合、国王は「聖俗両面での最高の統治者」と規定され、国王の祭司的権威が薄められている。「礼拝統一法」はエドワード6世の「一般祈祷書」を復活させたものであるが、ここでも反カトリック的性格は弱められている。1571年には「四十二か条信仰告白」を要約した「三十九か条信仰告白」が議会で裁可された。「四十二か条信仰告白」とは異なり、もはやそれほど宗教改革的とはいえず、イギリス教会の伝統が表出している。「三十九か条」は、今日なおイギリス国教会の信仰基準となっている。エリザベス1世の中道主義は、平安の道を歩んだわけではない。国教忌避者はカトリックだけではなく、ピューリタンのなかにもいた。1560年代からまさに非難の意味を込めてピューリタンとよばれたカルバン教徒は、教会への国家の影響行使に同意せず、国教会の内部に長老会制度の樹立を企てた。さらには、単一教会の自律性を主張した会衆派が生まれ、そのなかの分離派は国教会からの分離、独立の教会組織を目ざした。そのため、「国教忌避者処罰法」(1593)の制定により、徹底して弾圧された。しかし、ピューリタンを制圧しきることはできず、ピューリタン革命によってイギリス国教会は大きく揺さぶられることになる。[森田安一]
『R・H・ベイントン著、出村彰訳『宗教改革史』(1966・新教出版社) ▽G・R・エルトン著、越智武臣訳『宗教改革の時代』(1973・みすず書房) ▽R・シュトゥッペリヒ著、森田安一訳『ドイツ宗教改革史研究』(1984・ヨルダン社)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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精選版 日本国語大辞典

しゅうきょう‐かいかく シュウケウ‥【宗教改革】
〘名〙 一六世紀のヨーロッパで起こった、ローマ‐カトリック教会に対する改革運動。この結果、プロテスタント教会(新教)が成立した。一五一七年ドイツのマルチン=ルターが、九五か条の論題を提示して法王の免罪符販売を攻撃したことに端を発する。ルターは、カトリックの伝承や教権、儀礼などを否定し、聖書に回帰することをモットーとした。また、ジャン=カルバンはジュネーブにおいて、より組織的かつ徹底的な改革を行ない、改革派教会を確立した。
※将来之日本(1886)〈徳富蘇峰〉三「それ日耳曼は宗教改革の故郷なり」

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旺文社世界史事典 三訂版

宗教改革
しゅうきょうかいかく
Reformation
16世紀のヨーロッパに起こった宗教上の変革運動。福音主義を唱えてカトリックの伝統的教義と対立し,『聖書』の権威を主張してローマ教皇の教義上の権威と公会議の無謬性を否定,新しいキリスト教信仰をうち立てた。カトリックではこれを信仰の分裂と呼ぶ
ルターの九十五か条の論題提起(1517)に始まり,アウグスブルクの宗教和議(1555)で一応の解決がみられた。領主権力でもある教会の搾取に対する農民の不満,人文主義者らによる教会の権威や伝統に対する批判,魂の救済を求めるカトリックの内部改革の動きなどが底流にあり,ウィクリフ・フス・サヴォナローラらが改革の先駆となった。贖宥状の効力に関するルターの九十五か条の論題に端を発した改革運動は,教皇や皇帝と対立し,貴族や農民の支持をえて動乱に発展した。ドイツ農民戦争(1524〜25)は失敗に終わったが,改革派諸侯によるシュマルカルデン戦争(1546〜47)ののち,アウグスブルクの宗教和議が成立し,領邦内におけるルター派の信仰選択の自由が認められた。宗教改革の精神はさらにツヴィングリ・カルヴァンによって全ヨーロッパに広まり,特にカルヴァン主義の禁欲的な生活倫理は,フランスのユグノー,イギリスのピューリタン,オランダのゴイセンなど,当時新興の中産的産業市民層に信奉され,資本主義の発展を促す倫理的要素となった。これらの宗教改革運動に対応して,カトリック内部でも改革が行われた。イギリスでは,ヘンリ7世により絶対主義が成立し,教会もウィクリフの革新運動などにより王権の下に置かれていた。1534年,ヘンリ8世が王妃との離婚をローマ教皇に認められなかったことから,ローマ教会からの独立を決意し,首長法によりイギリス国教会を設立してその首長となり,修道院を解散してその財産を没収した。その後,メアリ1世の時代に一時カトリックにもどったが,エリザベス1世が1559年に統一法を発して,イギリス国教会が確立した。しかし,その改革は政治的なもので,教義や儀式はカトリック的な要素が多く残った。

出典:旺文社世界史事典 三訂版
執筆者一覧(50音順)
小豆畑和之 石井栄二 今泉博 仮屋園巌 津野田興一 三木健詞
 
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