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宮古路豊後掾【みやこじぶんごのじょう】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

宮古路豊後掾
みやこじぶんごのじょう
[生]?
[没]元文5(1740).京都
江戸時代中期の豊後節始祖浄瑠璃太夫。京都の1世都太夫一中門弟都国太夫半中と名のった。享保初年頃半中節の名で知られていたが,その後独立。宮古路国太夫を経て,享保 17 (1732) 年豊後掾を受領。同 17年京坂の門弟繁太夫 (繁太夫節の始) や薗八 (宮薗節の始祖) を残して名古屋に行き,19年には江戸に下った。豊後掾は世話浄瑠璃,特に心中道行物を得意とし,従来硬派の浄瑠璃が主であった江戸では,豊後掾の柔らかく熱情的な語り口が大きな人気を博し,豊後掾の髪型などが流行するほどであった。しかしそのため他派の人々にねたまれ,また江戸幕府からも弾圧を受ける結果となった。元文2 (1737) 年門弟を江戸に残して京都に戻り,掾号も返上して宮古路豊後となった。以後,京坂の芝居に出演していたが,まもなく病没。江戸残留の門人加賀太夫 (新内節の遠祖) や文字太夫 (常磐津節の始祖) たちは改姓して独立した。

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デジタル大辞泉

みやこじ‐ぶんごのじょう〔みやこぢ‐〕【宮古路豊後掾】
[1660?~1740]江戸中期の浄瑠璃太夫豊後節の始祖。京都の人。初世都太夫一中に学び、都国太夫半中と称したが、のち独立して宮古路と改め、一流をなした。江戸に出て豊後掾を受領、哀婉な語り口で人気を博したが、晩年、幕府の弾圧を受けた。

出典:小学館
監修:松村明
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

宮古路豊後掾 みやこじ-ぶんごのじょう
?-1740 江戸時代中期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
宮古路節,豊後節の祖。初代都太夫一中門下で都国太夫半中を名のり,享保(きょうほう)7年(1722)ごろ独立して宮古路と改姓。19年江戸で「睦月連理〓(「椿」の下に「心」)(むつまじきれんりのたまつばき)」が評判を得,同年豊後掾となる。元文元年豊後節が風紀上の理由で禁圧され,まもなく京都にもどった。元文5年9月1日死去。享年に81歳説,38歳説がある。

出典:講談社
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書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版

みやこじぶんごのじょう【宮古路豊後掾】
浄瑠璃の太夫。生没年不詳。初世都太夫一中の門人で,はじめ都国太夫半中と称した。享保(1716‐36)初年ごろにはすでに〈半中節〉の名は高く,一中節に《小春髪結の段》《根曳の門松》《道行三度笠》などを残している。1722年(享保7)春ごろ一中節から独立,宮古路国太夫半中と改め,宮古路節国太夫節の名を高めた。やがて31年には宮古路豊後と名のり,江戸へ下り,ついで名古屋に滞在,そのとき実際の心中事件をモデルにした《睦月連理(むつまじきれんりのたまつばき)》を作り,これを持って34年ふたたび江戸へ下り,大好評を博した。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

みやこじぶんごのじょう【宮古路豊後掾】
(初世)1660?~1740 江戸中期の浄瑠璃太夫。京都の人。都一中の門弟で都国太夫半中と称したが、のち独立して宮古路国太夫と改称。その後、豊後掾を受領、1734年頃江戸に下って人気を得たが、36年豊後節が禁止されたため、京都に戻り、間もなく没した。

出典:三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)

宮古路豊後掾
みやこじぶんごのじょう
(?―1740)
浄瑠璃(じょうるり)の太夫(たゆう)で豊後節の始祖。京都の人。一中(いっちゅう)節の都太夫一中の門弟で都国太夫半中といい、のち独立して宮古路豊後を名のる。1734年(享保19)名古屋の興行では、その地で起こった心中未遂事件を脚色上演した『睦月連理(むつまじきれんりのたまつばき)』で好評を博した。同年江戸へ下り、豊後掾を受領(ずりょう)、橘盛村(たちばなのもりむら)を名のり、上記狂言を演じて大当りをとった。翌35年の中村座での上演ではつややかな曲節が爆発的な人気をよぶとともに、彼の文金風と名づけられた結髪や、長羽織や衣服の仕立て、着ぶりが流行した。そのため在来の江戸浄瑠璃系の連中やその支援者たちの反感を買い、ついには時の官憲の忌諱(きい)に触れて風俗壊乱の科(とが)で36年(元文1)に町奉行(ぶぎょう)から、「宮古路浄瑠璃太夫共芝居興行の儀は苦しからず、自宅にて稽古(けいこ)相成らず」との達しがあった。そこで、翌年京都へ帰り、上方(かみがた)の芝居に出勤して没した。実子(または養子)の若太夫が2世を継ぎ、宮古路世代太夫が国太夫を経てのちに3世を名のったとも伝えられる。[林喜代弘]

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精選版 日本国語大辞典

みやこじ‐ぶんごのじょう【宮古路豊後掾】
浄瑠璃の太夫。初世。京都の人。豊後節(宮古路節)の創始者。初世都太夫一中に入門、はじめ都国太夫半中と称し、享保一五年(一七三〇)頃宮古路豊後と改名。享保一九年江戸に出て豊後掾を受領。京・大坂・名古屋でも活躍したが、心中物を中心とした、その新鮮で柔らかい世話浄瑠璃が特に江戸で流行。元文元年(一七三六)風俗を乱すとの理由で禁止されたため、翌年京都に帰り、京坂の劇場に出演。元文五年(一七四〇)没。

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