●富士講【ふじこう】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
富士講
ふじこう
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デジタル大辞泉
ふじ‐こう【富士講】
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世界大百科事典 第2版
ふじこう【富士講】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
富士講
ふじこう
富士山信仰の講社。富士山を遠く仰ぎ見て宗教的な感慨を抱くことは、古くからあったに違いないが、中世には修験道(しゅげんどう)を中心に、関東・東海地方に富士信仰が形成されていた。近世初期に長谷川角行(はせがわかくぎょう)が教義を整え、その布教のために信徒組織をつくった。富士山登拝と寄進がおもな目的である。その後、食行身禄(じきぎょうみろく)が講社の発展を図り、江戸を中心に町人や農民に広く呼びかけた。先達(せんだつ)が霊験(れいげん)を説いて信徒を集め、先達に引率されて富士山に登拝するものである。講中の者は登拝に先だって3日または7日の精進潔斎ののち、白衣を着て鈴と金剛杖(こんごうづえ)を持ち、「六根清浄(ろっこんしょうじょう)お山は晴天」などと唱えながら、行者(ぎょうじゃ)として修行のために富士山に集団登拝する。実際に登山できない人のためには、村内に富士塚などの遙拝(ようはい)所を設けた。関東にはいまも、富士山をかたどった富士塚や、登拝記念の石塔が数多くあり、地名に残ったものが多い。江戸時代には江戸八百八講といわれるほどに栄え、教派は身禄派と光清(こうせい)派に分かれたが、身禄派が優勢になった。江戸時代の末には幕府の弾圧を受けた。明治以後は教派神道として再生し、扶桑(ふそう)教、実行教、丸山教、富士教の諸派に分かれた。1923年(大正12)の関東大震災以後、東京の講社は激減した。現代は個人で登る人もあり、女性も登るが、昔ながらの服装の人もある。
[井之口章次]
『岩科小一郎著『富士講の歴史――江戸庶民の山岳信仰』(1983・名著出版)』
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精選版 日本国語大辞典
ふじ‐こう【富士講】

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