●小早川秀秋【こばやかわ ひであき】
美術人名辞典
小早川秀秋
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デジタル大辞泉
こばやかわ‐ひであき〔こばやかは‐〕【小早川秀秋】
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus
小早川秀秋 こばやかわ-ひであき
天正(てんしょう)10年生まれ。木下家定の子。高台院の甥(おい)。豊臣秀吉の養子から,秀吉の実子秀頼(ひでより)の出生後に小早川隆景(たかかげ)の養子となる。関ケ原の戦いで西軍に属したが,途中ねがえって東軍勝利の一因をつくり,備前,美作(みまさか)51万石をあたえられた。慶長7年10月18日死去。21歳。近江(おうみ)(滋賀県)出身。幼名は辰之助。前名は羽柴秀俊。通称は金吾中納言。
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世界大百科事典 第2版
こばやかわひであき【小早川秀秋】
安土桃山時代の武将。豊臣秀吉の正室高台院の兄木下家定の五男。幼少より秀吉の養子となり秀俊と名のる。1593年(文禄2)小早川隆景の養子となり,やがて筑前・筑後を領す。慶長の役には予備隊の大将として出陣するが,その際の行動が軽挙だとして秀吉の怒りをかい98年(慶長3)越前へ移封される。しかし翌年再び筑前・筑後の領国を与えられた。1600年の関ヶ原の戦では,秀秋の寝返りによって徳川方勝利の因をつくり,宇喜多秀家の旧領備前・美作50万石を領して岡山に居す。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
小早川秀秋
こばやかわひであき
[没]慶長7(1602).10.18. 岡山
安土桃山時代の武将。豊臣秀吉の正室高台院の兄木下家定の5男で,幼名は辰之助。初め秀吉の養子となり,羽柴秀俊と名のって丹波亀山で 10万石を領したが,文禄2 (1593) 年秀頼誕生後,小早川隆景の養子となり秀詮と改名した。隆景の隠居後小早川家を継ぎ,秀秋と名のって筑前,筑後,肥前に 33万石を領し,筑前名島城主となった。次いで慶長2 (97) 年の慶長の役 (→文禄・慶長の役 ) には総大将として渡鮮したが,軽率なふるまいがあったとして召還され,帰国後越前北庄 12万石に減封された。秀吉の死後,復領して 52万石を領し,関ヶ原の戦いには,初め西軍に加わったが,東軍に内通し,その功で備前,備中,美作で宇喜多秀家の旧領 50万石を与えられた。子なく,死後小早川家は断絶。 (→小早川氏 )
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日本大百科全書(ニッポニカ)
小早川秀秋
こばやかわひであき
(1582―1602)
安土(あづち)桃山時代の武将。幼名辰之助(たつのすけ)。通称金吾(きんご)。左衛門佐(さえもんのすけ)、権中納言(ごんちゅうなごん)。豊臣(とよとみ)秀吉の正室高台院の兄木下家定の三男として生まれる。秀吉の猶子(ゆうし)となり、丹波亀山(たんばかめやま)10万石を領し、羽柴秀俊(はしばひでとし)と名のる。1594年(文禄3)小早川隆景(たかかげ)の養子に入る。同年11月中国に下向して三原城(広島県三原市)に入り、毛利輝元(もうりてるもと)の従妹(いとこ)を妻とした。翌年家督を嗣(つ)ぎ、隆景から筑前(ちくぜん)1国、筑後(ちくご)の大部分、肥前(ひぜん)2郡33万6000石を譲り受け、隆景は三原に隠居、かわって秀秋は筑前名嶋(なじま)城に移った。97年(慶長2)朝鮮に出陣。釜山浦(ふざんほ)城の守将となり、また蔚山(うるさん)城の救助に活躍し、帰国。その後秀吉の怒りに触れ越前(えちぜん)北庄(きたのしょう)に移封されようとしたが、徳川家康のとりなしで筑前にとどまる。99年秀吉の遺命で復領し、筑前・筑後52万2500石を得る。翌年関ヶ原の戦いで西軍として伊勢(いせ)口を守り、伏見(ふしみ)城を攻めたが、9月の関ヶ原決戦時には東軍に応じた。戦功により家康から備前(びぜん)、美作(みまさか)において50万石を与えられ、岡山城に移り住んだが、慶長(けいちょう)7年21歳の若さで死去した。秀秋には嗣子(しし)がなく、備前・美作は収公され、小早川本宗家は断絶した。
[田端泰子]
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精選版 日本国語大辞典
こばやかわ‐ひであき【小早川秀秋】
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旺文社日本史事典 三訂版
小早川秀秋
こばやかわひであき
安土桃山時代の武将
豊臣秀吉の正室北政所の兄の子。通称金吾中納言。隆景の養子となった。慶長の役に総大将となり蔚山 (うるさん) に奮戦。関ケ原の戦いには初め西軍に属したが東軍に内応,東軍を勝利にみちびいた。功によって岡山50万石を与えられたが,嗣子がなく所領を没収された。
出典:旺文社日本史事典 三訂版
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