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小早川隆景【こばやかわ たかかげ】

美術人名辞典

小早川隆景
安土・桃山時代武将幼名は徳寿丸、通称又四郎毛利元就の第三子。本能寺の後、秀吉と深く結び、五大老の一人となる。慶長2年(1597)歿、65才。

出典:(株)思文閣

デジタル大辞泉

こばやかわ‐たかかげ〔こばやかは‐〕【小早川隆景】
[1533~1597]安土桃山時代の武将。毛利元就(もうりもとなり)三男。幼名、徳寿丸、のち又四郎安芸小早川家を継ぐ。織田信長の中国攻略に羽柴秀吉と戦ったが和解、秀吉の信を得て五大老の一人となり四国・九州平定、小田原攻め、文禄の役参戦

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

小早川隆景 こばやかわ-たかかげ
1533-1597 戦国-織豊時代の武将。
天文(てんぶん)2年生まれ。毛利元就(もとなり)の3男。安芸(あき)(広島県)の竹原小早川家の養子となり,天文19年沼田(ぬた)小早川家もつぐ。兄吉川(きっかわ)元春とともに宗家毛利氏の発展につくした。天正(てんしょう)10年(1582)中国攻めの羽柴(豊臣)秀吉と和議をむすび,以後秀吉に協力し豊臣五大老のひとりとなった。慶長2年6月12日死去。65歳。幼名は徳寿丸。通称は又四郎,左衛門佐。

出典:講談社
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版

こばやかわたかかげ【小早川隆景】
1533‐97(天文2‐慶長2)
安土桃山時代の武将。幼名徳寿丸,のち又四郎隆景と称す。毛利元就の三男。1544年(天文13)竹原小早川家,さらに50年沼田小早川家を継ぐ。兄吉川元春とともに毛利両川(りようせん)といわれ,宗家毛利氏(父の元就,兄の隆元,の輝元)をたすけて中国および四国・九州の一部を経略した。おもに山陽地域の統治を担当,三原を中心に瀬戸内海に強力な水軍を編成した。開明的な性格を有し,82年(天正10)豊臣秀吉来攻の際には,毛利氏外交の責任者として講和を進めた。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

こばやかわたかかげ【小早川隆景】
1533~1597 安土桃山時代の武将。毛利元就の三男。通称、又四郎。小早川家を継ぎ、毛利輝元をたすけて水軍を編制、瀬戸内海に勢力をふるった。のち豊臣秀吉に仕え、四国・九州出兵、文禄の役に活躍。五大老の一人。

出典:三省堂
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

小早川隆景
こばやかわたかかげ
[生]天文2(1533).安芸,郡山
[没]慶長2(1597).6.12. 備後,三原
安土桃山時代の武将。毛利元就の3男。母は吉川国経の娘。天文 13 (1544) 年竹原小早川家を,同 19年沼田小早川家を継ぎ,兄吉川元春とともに毛利氏を助け,「毛利の両川」と呼ばれた。毛利氏が山陽,山陰,九州の一部を領有しえたのは2人の功によるところが大きい。豊臣秀吉が中国征伐に出陣し,本能寺の変の報に接して天正 10 (82) 年,毛利氏と講和した際,交渉にあたったのは隆景であった。以後秀吉と親交を結び,秀吉の四国,九州征伐に参加し,功によって伊予国を,さらに同 16年肥前,筑後の各2郡を与えられた。次いで文禄の役に従軍。文禄2 (93) 年,碧蹄館の戦いで明将李如松を破る。同4年参議,次いで権中納言に進み,また大老として秀吉に重用されたが,家督を養子の秀秋に譲って本領備後三原に隠退した。 (→小早川氏 )  

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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日本大百科全書(ニッポニカ)

小早川隆景
こばやかわたかかげ
(1533―1597)
戦国・安土(あづち)桃山時代の武将。毛利元就(もうりもとなり)の三男。幼名徳寿丸(とくじゅまる)、又四郎、左衛門佐(さえもんのすけ)。従三位(じゅさんみ)・権中納言(ごんちゅうなごん)。1544年(天文13)竹原(たけはら)小早川家の養子となり家を嗣(つ)ぎ、50年沼田(ぬた)小早川家の正平(まさひら)の娘を室としてその嗣子(しし)となり、これにより両小早川家は合一した。51年沼田荘の高山城に住んだが、67年(永禄10)三原城(広島県三原市)を築く。弟市正(いちまさ)(秀包(ひでかね))を養子とし、のち筑後(ちくご)3郡7万5000石を与え、別家としている。85年(天正13)長宗我部(ちょうそがべ)氏を討った功により、豊臣(とよとみ)秀吉から伊予(いよ)35万石を、また87年には島津氏を討伐して筑前(ちくぜん)1国、筑後1国、肥前(ひぜん)1郡を与えられ、筑前名嶋(なじま)城へ移る。91年、太閤検地により旧領安芸(あき)・備後(びんご)と、筑前1国、筑後・肥前各2郡を改めて与えられた。また94年には秀吉の猶子(ゆうし)秀秋(ひであき)を嗣子とした。
 元就の次男で吉川(きっかわ)家を嗣いだ元春(もとはる)とともに、毛利氏の国衆(くにしゅう)としてその戦国大名化をよく助け、「毛利両川(りょうせん)」とよばれる。1582年、秀吉の高松城攻撃中、本能寺(ほんのうじ)の変で信長が死去したが、このとき輝元・元春ら毛利軍のなかで秀吉と和を結ぶことを主張したのは隆景であった。この功により秀吉の信を得た。92年(文禄1)から朝鮮に出陣し、在朝鮮軍の重鎮として、秀吉の信望厚く、秀吉をして隆景の注進以外信頼しないとまでいわせている。93年李如松(りじょしょう)軍を破ったが、病を得、閏(うるう)9月に帰国。95年従三位・権中納言に任じられ、同年家督を秀秋に譲った。慶長(けいちょう)2年6月、三原城にて死去した。
 隆景は毛利氏の三男でありながら小早川氏を嗣いだため、家中の人心の一致に苦労したといわれるが、元就が隆元・元春・隆景の3子に心を一つにして毛利氏が堅固であるように努めよとした訓戒を守り、毛利氏の支援を得て家中の統一を成し遂げるとともに、兄の元春とともに誠心毛利氏のために尽くした。五大老の一人として秀吉の信望厚く、毛利氏の秀吉との提携に重要な橋渡しの役割を果たした。[田端泰子]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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精選版 日本国語大辞典

こばやかわ‐たかかげ【小早川隆景】
戦国・安土桃山時代の武将。豊臣家五大老の一人。毛利元就の三男。幼名徳寿丸、通称又四郎。安芸の小早川家を継ぐ。毛利氏をたすけて中国経略にあたり、兄吉川(きっかわ)元春とともに両川といわれた。のち豊臣秀吉に従い、九州征伐、文祿の役に出陣。学を好み、名島学校を興す。三原中納言。法名泰雲紹閑。天文二~慶長二年(一五三三‐九七

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旺文社日本史事典 三訂版

小早川隆景
こばやかわたかかげ
1533〜97
戦国・安土桃山時代の武将
毛利元就 (もとなり) の3男。小早川家を継ぎ,兄吉川元春とともに元就・甥の輝元を助け,毛利氏の中国制覇に活躍した。備中高松城防衛に出陣して豊臣秀吉と和睦。秀吉に服し九州征討先陣となった。文禄の役では碧蹄館 (へきていかん) で明の大軍を破った。1595年五大老の一人となったが,病気のため隠退。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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