●小笠原氏【おがさわらうじ】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
小笠原氏
おがさわらうじ
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世界大百科事典 第2版
おがさわらうじ【小笠原氏】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
小笠原氏
おがさわらうじ
新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)を祖とする甲斐源氏(かいげんじ)で、武田氏と同族。3代遠光(とおみつ)の子長清(ながきよ)が甲斐国小笠原(山梨県南アルプス市小笠原)の地に住んで小笠原を名のった。遠光は平氏追討に戦功があって信濃(しなの)(長野県)の国司に任ぜられ、長清も信濃の伴野荘地頭職(ともののしょうじとうしき)に補(ぶ)せられ、源頼朝(みなもとのよりとも)の親任が厚かった。その後、長清の子孫が阿波国(あわのくに)(徳島県)の守護職を継いだ。元弘(げんこう)の変(1331)には貞宗(さだむね)が足利尊氏(あしかがたかうじ)に従って戦功をあげ、北条氏にかわって信濃の守護となり、その地に多くの所領を得た。小笠原氏宗家(そうけ)は本拠地を甲斐から信濃に移し、南北朝の内乱時代を幕府方として活躍した。政康(まさやす)は関東の影響で乱れる信濃を1440年(永享12)に平定したが、その死後、一族は府中小笠原(ふちゅうおがさわら)と伊那小笠原(いなおがさわら)に分裂し対立した。庶流の京都小笠原家は室町将軍家の弓馬指南として、後世に小笠原流を伝えた。
天文(てんぶん)年間(1532~1555)の武田信玄(たけだしんげん)の侵入により、戦国大名小笠原長時(ながとき)は府中(松本市)を追われたが、その子貞慶(さだよし)は徳川家に仕え、武田氏の滅亡のとき信濃に入って家を再興した。その後、小笠原氏は豊前国(ぶぜんのくに)小倉(こくら)(福岡県北九州市)に移封となった。越前(えちぜん)藩主の小笠原は伊那の系統である。
[湯本軍一]
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