●山城国一揆【やましろのくにいっき】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
山城国一揆
やましろのくにいっき
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デジタル大辞泉
やましろ‐の‐くにいっき【山城国一揆】
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世界大百科事典 第2版
やましろのくにいっき【山城国一揆】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
山城国一揆
やましろのくにいっき
1485年(文明17)12月、南山城で地侍(じざむらい)・名主(みょうしゅ)を中心に一般農民が加わって起こされた一揆。京都の合戦に始まった応仁文明(おうにんぶんめい)の乱は各地に広がり、当時河内(かわち)や南山城では畠山政長(はたけやままさなが)・同義就(よしなり)両軍による戦乱が続いていた。ことに同年10月以来、両軍は南山城で対陣したまま戦況は膠着(こうちゃく)状態に入ってしまい、そのため農民からは繰り返し人夫・兵粮米(ひょうろうまい)が徴発され、田畑は荒らされ民家は焼き払われた。このような状態に苦しめられた南山城の地侍や一般の農民たちは共同し、両畠山軍に南山城から撤退するように申し入れた。この申し入れは、『大乗院(だいじょういん)寺社雑事記(ぞうじき)』12月11日条によると、上は60歳から下は15歳に及ぶ国人(こくじん)が集会し、一国中の土民(どみん)が群集して決められたという。この集会では、ほかに寺社本所領は直務として大和(やまと)以下他国の代官を入れないこと、新関をいっさいたてないことなどを掟法(おきて)として定めた。さらに翌年2月には宇治平等院(うじびょうどういん)で再度の集会を開いて掟法の充実を図り、月行事を定めて自ら国を支配する体制を整えた。この組織は当時「惣国(そうごく)」とよばれ、その運営の費用は国中に半済(はんぜい)を実施することによって確保しようとした。しかし、この一揆の中心となった地侍たちは、それぞれ畠山義就に通じる古市(ふるいち)方の者と、畠山政長にくみした細川氏の被官に分かれており、この内部矛盾が激化し、1493年(明応2)伊勢(いせ)氏の山城国守護就任を認めることによって一揆は崩壊した。
[黒川直則]
『鈴木良一著『中世の農民問題』(1971・校倉書房)』▽『稲垣泰彦著『日本中世社会史論』(1981・東京大学出版会)』▽『峰岸純夫編『土一揆』(『シンポジウム日本歴史9』1974・学生社)』▽『稲垣泰彦・戸田芳実編『土一揆と内乱』(『日本民衆の歴史2』1975・三省堂)』
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旺文社日本史事典 三訂版
山城国一揆
やましろのくにいっき
応仁の乱(1467〜77)後も南山城 (みなみやましろ) ・河内などで畠山政長と義就 (よしなり) が対立し,戦闘を続けたため,国人・土民が集会し,両畠山軍の退陣,寺社本所領の還付,新関の廃止などの要求を決議し,両軍を撤退させた。宇治平等院で国中掟法を制定し,三十六人衆の月行事により8年間山城一国の自治支配を行ったが,1493年内部対立のため瓦解した。
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