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山県有朋【やまがた ありとも】

美術人名辞典

山県有朋
軍人・政治家。山口県生。名は小輔・狂、維新後有朋と改名、号は素狂・含雪。松下村塾門下生として尊攘思想を学び、のちに戊辰戦争に参加。大村益次郎の後を継ぎ兵制を整え、西南戦争では征討参軍となる。伊藤博文と共に明治政府の最高指導者となり、内務卿枢密院議長総理大臣等を歴任する。大正11年(1922)歿、85才。

出典:(株)思文閣

デジタル大辞泉

やまがた‐ありとも【山県有朋】
[1838~1922]軍人・政治家。陸軍大将・元帥。山口の生まれ。松下村塾に学ぶ。明治維新後、ヨーロッパ諸国の軍制を視察、陸軍創設徴兵令施行・軍人勅諭発布など軍制の整備に努めた。法相・内相・首相枢密院議長を歴任。山県閥を作り、元老として政界支配

出典:小学館
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

山県有朋 やまがた-ありとも
1838-1922 明治-大正時代の軍人,政治家。
天保(てんぽう)9年閏(うるう)4月22日生まれ。もと長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。松下村塾にまなび,奇兵隊軍監となる。維新後,徴兵制,軍制を確立し,明治6年陸軍卿(きょう),11年初代参謀本部長。18年初代内相となり地方制度を整備。22年,31年の2度組閣。以後も元帥,元老として陸軍,政界に山県閥をきずき,内政,外交に絶大な発言力を発揮した。大正11年2月1日死去。85歳。
格言など】私は一介の武弁にすぎない

出典:講談社
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版

やまがたありとも【山県有朋】
1838‐1922(天保9‐大正11)
明治・大正時代の代表的な藩閥政治家。元老,陸軍の最長老として軍や官政界に強大な勢力を振るった。幼名辰之助,のち小輔,さらに狂介と名のる。長州藩の蔵元付仲間という軽輩の家に生まれ,少年のころから槍術修行に努め,長じて吉田松陰の松下村塾に学んだ。やがて高杉晋作や伊藤博文らと尊王攘夷運動に挺身し,1863年(文久3)奇兵隊の軍監となり,翌年には英・米・仏・蘭4国連合艦隊と交戦して敗れ,彼自身も負傷した。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

やまがたありとも【山県有朋】
1838~1922 軍人・政治家。長州藩出身。維新後ヨーロッパの兵制を視察し、徴兵令の制定にあたり、陸軍の創設に活躍した。初代参謀本部長。のち陸相・内相を歴任。1889年(明治22)、98年の二度組閣。典型的な藩閥政治家として明治政府を主導した。元帥。元老。

出典:三省堂
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

山県有朋
やまがたありとも
[生]天保9(1838).4.22. 長門,萩
[没]1922.2.1. 東京
政治家,軍人,萩藩卒。伊藤博文と並ぶ長州閥の代表的な政治家の一人。長州藩の下級武士の家に生れた。安政5 (1858) 年頃から尊王攘夷運動に参加,松下村塾に学び,のちに奇兵隊軍監となった。明治新政府のもとでヨーロッパ視察に派遣され,帰国後兵部少輔に任ぜられて軍制確立に尽力。明治5 (72) 年陸軍大輔,1873年陸軍卿になり,この間徴兵令の制定,士族農民反乱の鎮圧,軍人勅諭の発布などに指導的役割を果し,日清,日露両戦争では陸軍の最高指導者として活躍。一方,政界では,内閣総理大臣として 89年第1次山県有朋内閣を組閣し,教育勅語の発布を進め,96年には全権大使としてモスクワ山県=ロバノフ協定を締結。 98年の第2次内閣組閣後は,藩閥政治の維持のため政党勢力を抑圧,軍部大臣現役武官制の公布,文官任用令改正などで,軍部,官僚の指導権確立に努めた。第2次山県有朋内閣の崩壊後も元老として内閣の人事,行政に干渉し,権力をふるったが,1921年皇太子妃選定問題で政治的失策をおかし,政治生命を失った。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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日本大百科全書(ニッポニカ)

山県有朋
やまがたありとも
(1838―1922)
明治・大正期の政治家、元老。陸軍大将、元帥。天保(てんぽう)9年6月14日、長州藩(ちょうしゅうはん)下級士族山県有稔(ありとし)の長男として萩(はぎ)城下に生まれる。幼名辰之助(たつのすけ)、のち小輔(こすけ)、狂介(きょうすけ)と改称、維新後有朋と称した。含雪(がんせつ)と号す。早くから尊王攘夷(そんのうじょうい)思想の影響を受け、松下村塾(しょうかそんじゅく)に学ぶ。長州藩倒幕派に加わり、奇兵隊軍監として活躍。戊辰戦争(ぼしんせんそう)では北陸道鎮撫総督(ほくりくどうちんぶそうとく)兼会津征討総督の参謀として越後(えちご)、奥羽に転戦。維新後の1869年(明治2)渡欧、各国軍制を視察し翌1870年帰国。兵部少輔(ひょうぶしょうゆう)、ついで同大輔(たいふ)となる。西郷隆盛(さいごうたかもり)と諮って御親兵(ごしんぺい)を組織し、廃藩置県に尽力。また大村益次郎(おおむらますじろう)の志を継ぎ徴兵制を主張し、1873年これを実現、近代軍制の基礎を築いた。同年陸軍省設置により陸軍卿(きょう)となり参議を兼任。相次ぐ農民一揆(のうみんいっき)、士族反乱の鎮圧に努め、西南戦争後の1878年にはドイツに倣って参謀本部を設置し軍政・軍令機関の二元化を行い、初代参謀本部長の任にあたった。1878年軍人訓誡(ぐんじんくんかい)を頒布、1882年には軍人勅諭を起案、頒布し、天皇制軍隊の精神的基礎を固めた。この間、自由民権運動に対抗して漸進的な立憲制への移行を主張し、1881年(明治14)政変では、伊藤博文(いとうひろぶみ)、岩倉具視(いわくらともみ)らと謀って大隈重信(おおくましげのぶ)一派の政府外追放を行い、プロシア流憲法制定の方向を確定した。1882年参事院議長、翌1883年には内務卿に就任して自由民権運動を弾圧するとともに、地主=名望家の地方支配を意図した地方制度創出に努力し、1888年に市制・町村制、1890年には府県制・郡制を制定した。この間、1884年華族令の制定により伯爵を授けられ、1890年には陸軍大将に昇進した。
 1889年第一次山県内閣を組織、1890年の第一議会に臨み軍備拡張を主張し、「民力休養」を掲げた民党と対立、自由党土佐派を切り崩して、からくも切り抜けた。1891年内閣総辞職、元勲優遇の勅語を受け、伊藤博文、黒田清隆(くろだきよたか)らとともに元老として大きな政治力を発揮した。日清戦争では第一軍司令官として出征したが、病気で帰国。戦後は列強の中国分割激化のなかで軍備拡張を主張した。1898年元帥。この時期、戦後経営をめぐる藩閥政府と政党の妥協提携に強い不満をもち、藩閥官僚、貴族院の勢力を結集し、巨大な山県閥を形成するに至った。また伊藤の政党結成論に対しては三党鼎立(ていりつ)論(二大政党間に少数官僚派議員を掌握してキャスティング・ボートを握り政党を操縦する)をもって対抗した。1898年、第一次大隈内閣瓦解(がかい)の後を受けて第二次山県内閣を組織し、憲政党と提携して軍拡財源確保のために地租増徴を断行、このあと政党勢力の官僚機構への進出を阻むため文官任用令改正、枢密院権限の拡大、軍部大臣現役武官制を制定して官僚制を強化した。また治安警察法を制定して労働・農民運動の台頭に備えた。対外的には1900年(明治33)の義和団事件(北清事変(ほくしんじへん))に際し、最大の軍隊を中国に派遣し、列強に協力して、帝国主義国としての地歩を固めた。1900年9月伊藤博文が立憲政友会を組織すると、伊藤を後継首班に推薦して総辞職した。1901年第一次桂太郎(かつらたろう)内閣が成立すると黒幕として背後から援助し、日英同盟を締結させ、対露戦準備を強行させた。日露戦争では参謀総長、兵站(へいたん)総督として大本営に列し、1907年にはその功により公爵に陞叙(しょうじょ)された。戦後は軍部の巨頭として1907年「帝国国防方針」の策定を進め、軍備拡張、軍部の政治的地位の強化に努めた。1909年伊藤博文が暗殺されると元老としての地位を強め、山県閥、軍部勢力を背景に内政、外交に絶大な力を発揮した。しかし大正期に入り民衆運動が高揚し、政党の力が強まるにつれてその影響力も徐々に弱まり、1918年(大正7)の米騒動では大きな衝撃を受け、ついに政友会総裁原敬(はらたかし)を首相候補に推薦し、政党内閣を認めるに至った。1921年の皇太子妃選定問題(宮中某重大事件)に失敗し、翌大正11年2月1日失意のうちに没し、国葬が行われた。官僚政治家として絶大な権力を駆使したが、性格は慎重、陰険で、生涯強い権力欲で一貫した。和歌をよくし、築庭・造園に趣味をもち、その邸宅として、京都無隣庵(きょうとむりんあん)、小田原古稀庵(おだわらこきあん)、目白椿山荘(めじろちんざんそう)などが有名である。[由井正臣]
『入江貫一著『山県公のおもかげ』(1930・偕行社) ▽徳富猪一郎著『公爵山県有朋伝』全3巻(1933・山県有朋公記念事業会/復刻版・1969・原書房) ▽徳富蘇峰編述『公爵山県有朋伝』(1969・原書房・明治百年史叢書) ▽戸川猪佐武著『明治・大正の宰相2 山県有朋と富国強兵のリーダー』(1983・講談社) ▽御手洗辰雄著、細川隆元監修『日本宰相列伝2 山県有朋』(1985・時事通信社) ▽藤村道生著『人物叢書 山県有朋』新装版(1986・吉川弘文館) ▽御厨貴監修『歴代総理大臣伝記叢書3 山県有朋』(2005・ゆまに書房) ▽川田稔著『原敬と山県有朋――国家構想をめぐる外交と内政』(中公新書) ▽岡義武著『山県有朋――明治日本の象徴』(岩波新書) ▽伊藤之雄著『山県有朋――愚直な権力者の生涯』(文春新書)』

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精選版 日本国語大辞典

やまがた‐ありとも【山県有朋】
明治時代の軍人、政治家。長州の人。吉田松陰に学び奇兵隊を組織し、幕末動乱に活躍。維新後、陸軍大輔として徴兵令を施行。軍制の確立に努め参謀本部初代本部長に就任、軍人勅諭発布に参画。伊藤内閣の内相などを歴任後、明治二二年(一八八九)第一次山県内閣を組織、藩閥政府に指導的位置を占めた。日清戦争を指導後、第二次内閣を組織、伊藤博文死後、軍事・政治の絶対的権力を握り元老政治を行なった。天保九~大正一一年(一八三八‐一九二二

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旺文社日本史事典 三訂版

山県有朋
やまがたありとも
1838〜1922
明治・大正時代の軍人・政治家
陸軍大将・元帥。長州藩出身。吉田松陰の松下村塾に学び,奇兵隊を率い討幕運動で活躍。明治新政府では,兵部大輔・陸軍卿を歴任し,徴兵令の制定,参謀本部の設置,軍人勅諭発布など陸軍の基礎確立に尽力した。第1次伊藤博文内閣の内相として地方自治制を制定。日清戦争では第1軍司令官,日露戦争では参謀総長となる。この間1889・'98年の2度にわたり内閣を組織し,藩閥・軍閥の巨頭として政党勢力進出を抑制した。伊藤博文の死後は元老として絶大な権力を握った。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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