@niftyトップ

辞書、事典、用語解説などを検索できる無料サービスです。

島津荘【しまづのしょう】

朝日新聞掲載「キーワード」

島津荘
11世紀に大宰府の平季基がこの一帯を開拓し、関白藤原頼通に寄進した荘園。当初は小規模なものだったが、平安時代から鎌倉時代には鹿児島県の薩摩、大隅と日向の半分以上を占める約8千ヘクタールの国内最大の荘園となった。
(2016-09-14 朝日新聞 朝刊 鹿児島全県・2地方)

出典:朝日新聞掲載「キーワード」

世界大百科事典 第2版

しまづのしょう【島津荘】
南九州日向・大隅・薩摩3国にまたがる摂関家近衛家を本所とする広域荘園。1026年(万寿3)大宰大監平季基が日向国島津(現,宮崎県都城市内)を中心とする付近一帯の荒野を開発して宇治関白藤原頼通に寄進したのに始まる。その後関白忠実らの荘園拡充策と郡司等地方豪族の土地支配の欲求とが相まって平安末期から鎌倉初期にかけて約8000町歩の大荘園に発展した。島津荘は忠実からその女高陽院(かやいん)泰子へ,泰子から忠通の子基実へ伝領,基実の死後妻盛子(平清盛女)が管領,のち基実の子基通が相伝した。

出典:株式会社平凡社
Copyright (c) Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo. All rights reserved.

日本大百科全書(ニッポニカ)

島津荘
しまづのしょう

日向(ひゅうが)国諸県(もろかた)郡島津院(宮崎県都城(みやこのじょう)市郡元(こおりもと)付近)に発し、日向南部、大隅(おおすみ)、薩摩(さつま)の南九州3国に広がった巨大荘園。本所は摂関家(近衛(このえ)家)。11世紀初頭、大宰府大監(だざいふだいげん)平季基(すえもと)が伴(とも)氏ら在庁官人層と結託し関白藤原頼通(よりみち)に寄進したことに始まる。一円荘のほか、在地勢力による公領の寄進によって成立した半不輸の寄郡(よせごおり)とからなり、鎌倉期には8000町歩に及んだ。領家は、藤原忠通(ただみち)の家司(けいし)藤原邦綱(くにつな)から、邦綱の女(むすめ)成子、興福寺(こうふくじ)の院家の一乗院実信(いちじょういんじっしん)に伝えられ一乗院領となった。地頭は鎌倉初頭、惟宗忠久(これむねただひさ)が荘目代(しょうもくだい)・荘留守(しょうるす)と惣地頭(そうじとう)という公武両所職を兼帯し、荘園支配を確立しつつ幕府の南九州支配の要(かなめ)となった。荘内の没官領には、千葉常胤(ちばつねたね)や鮫島(さめじま)宗家など東国御家人(ごけにん)も入部し、惣地頭(東国御家人)と旧来の下司(げし)・弁済使(べんざいし)ら小地頭(在地領主)との対立も深まった。1203年(建仁3)比企(ひき)の乱で島津氏が失脚し、島津荘薩摩方を除く日向方・大隅方地頭職は守護職とともに北条氏に属した。南北朝期には、荘園支配も預所(あずかりどころ)から給主による年貢請負体制となり、在地領主にまったく依存する不安定なものとなり、1350年代には消滅した。なお、外国船の着岸地として、大宰府から独立して貿易も行われ、近衛家の重要な財源ともなっていた。

[井原今朝男]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

島津荘」の用語解説はコトバンクが提供しています。

島津荘の関連情報

他サービスで検索

(C)The Asahi Shimbun Company /VOYAGE MARKETING, Inc. All rights reserved.
No reproduction or republication without written permission.

アット・ニフティトップページへ アット・ニフティ会員に登録

ウェブサイトの利用について | 個人情報保護ポリシー
©NIFTY Corporation