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工藤平助【くどうへいすけ】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

工藤平助
くどうへいすけ
[生]享保19(1734).紀伊
[没]寛政12(1800).12.10. 江戸
江戸時代中期~後期の医者,海防家。紀州藩医の子として生れ,仙台藩医工藤丈庵の養子となる。江戸に住んで青木昆陽らに師事。和漢のみならず蘭学をも修めた。さらに長崎におもむいて海防の必要を悟り,『赤蝦夷風説考』を著わし,ロシアの侵略にそなえて蝦夷地を経略する必要を説いた。『救瘟袖暦』という著書もある。

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デジタル大辞泉

くどう‐へいすけ【工藤平助】
[1734~1801]江戸中期の医師・経世家紀伊の人。名は球卿。海防・開港貿易・蝦夷地(えぞち)開発を主張、「赤蝦夷風説考」を著し、ロシア南下に対する備えを説いた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

工藤平助 くどう-へいすけ
1734-1801* 江戸時代中期-後期の医師,経世家。
享保(きょうほう)19年生まれ。和歌山藩医長井常安の3男。江戸詰の仙台藩医工藤丈庵の養子。只野真葛の父。宝暦(ほうれき)5年家督をつぐ。服部南郭,青木昆陽にまなび,中川淳庵,桂川甫周(ほしゅう)らとまじわり,海外事情を知る。天明3年ロシアの南下を警告し,蝦夷地(えぞち)開拓を説く「赤蝦夷風説考」を老中田沼意次(おきつぐ)に献上した。寛政12年12月10日死去。67歳。名は球卿(きゅうけい)。字(あざな)は元琳(げんりん)。号は万光(ばんこう)。

出典:講談社
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世界大百科事典 第2版

くどうへいすけ【工藤平助】
1734‐1800(享保19‐寛政12)
江戸中期の経世家,医者。名は球卿,号は万光。紀州藩医の子で,江戸常勤の仙台藩医となる。前野良沢,桂川甫周,大槻玄沢らの創始期の蘭学者と親交があり,海外事情に通じていた。他方,営利の才に恵まれ,オランダ通詞と結託して,舶来品を売りさばき,巨利を博したと伝えられる。著書にロシア問題をとりあげて,その対策を論じた《赤蝦夷風説考》,密貿易対策を幕府に献策した《報国以言》などがある。【佐藤 昌介

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

くどうへいすけ【工藤平助】
1734~1800 江戸中・後期の経世家・医者。名は球卿。紀伊の人。仙台藩医工藤丈庵の養子。「赤蝦夷風説考」を著し、ロシアの脅威と蝦夷地経営を説いた。

出典:三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)

工藤平助
くどうへいすけ
(1734―1801)
江戸後期の医師、学者、経世家。名は球卿(きゅうけい)、字(あざな)は元琳(げんりん)、万光(ばんこう)、通称は周庵(しゅうあん)、のち青年に及び平助と称す。紀州藩医長井常安の第3子として12歳まで紀州に育つ。幼にして神童の聞こえが高かった。13歳で仙台藩医工藤丈庵(じょうあん)の養子となる。工藤家は代々の仙台藩医であった。医術を養父に学び、儒学を服部南郭(はっとりなんかく)、青木昆陽(あおきこんよう)に師事。1754年(宝暦4)5月、父禄(ふろく)300石を継ぎ藩医に列せられ、江戸定詰となる。没年まで大過なく藩に仕え、医師としても重視されたが、藩政にも関与するようになり、小姓頭(こしょうがしら)から出入司(でいりし)(仙台藩特有の官職で財務をつかさどる)に進んだ。彼は医術のみに携わることを好まず、学を愛し、多くの優れた友人と天下を論じた。中年に『管見録』(1790)を著し、当世の急務を論じ藩主に奉ったが、いまに伝わらない。中川淳庵(なかがわじゅんあん)、野呂元丈(のろげんじょう)、吉雄耕牛(よしおこうぎゅう)、桂川甫周(かつらがわほしゅう)ら初期蘭学(らんがく)者と交遊、海外の知識を得た。またオランダ商品を取引し巨利を得た。大槻玄沢(おおつきげんたく)を藩医に推挙し彼と親族の義を結んだ。ともに領内の薬物30種を調査研究し藩政に益した。1783年(天明3)老中田沼意次(たぬまおきつぐ)に献白書『赤蝦夷(あかえぞ)風説考』を提出、林子平(はやししへい)、本多利明(ほんだとしあき)ら江戸期海防論の先駆となった。子平は平助より蘭学の知識、国防論の刺激を受け、兄事していたが、『海国兵談』を著した際に序を請うた。慎重な平助は初め拒否したが、ついに承諾した。没後、江戸・深川寺町心行(しんぎょう)寺に葬られる。[塚谷晃弘]

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精選版 日本国語大辞典

くどう‐へいすけ【工藤平助】
江戸中期の医者、経世論者。仙台藩士。丈庵の養子。名は球卿。号万光。青木昆陽、服部南郭に儒学を学び、藩政に参画。北地の海防を論じ、「赤蝦夷風説考」を著わして、蝦夷地の開発を説いた。享保一九~寛政一二年(一七三四‐一八〇〇

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