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平沼騏一郎【ひらぬま きいちろう】

美術人名辞典

平沼騏一郎
政治家。岡山県生。号は機外。山本内閣司法大臣就任し、の門事件で辞任した。この頃より右翼結社国本社主宰する。のち近衛内閣のあとを受けて戦時内閣を組織した。また書を能くし、謡曲能楽等にも秀でる。昭和27年(1952)歿、85才。

出典:(株)思文閣

デジタル大辞泉

ひらぬま‐きいちろう〔‐キイチラウ〕【平沼騏一郎】
[1867~1952]政治家岡山の生まれ。検事総長大審院長・法相・貴族院議員・枢密顧問官を経て、昭和14年(1939)首相に就任。その間、国家主義団体「国本社」を主宰。第二次大戦後、A級戦犯として終身禁錮刑に処せられ、獄中病死

出典:小学館
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

平沼騏一郎 ひらぬま-きいちろう
1867-1952 明治-昭和時代前期の司法官,政治家。
慶応3年9月28日生まれ。検事総長,大審院長をへて,大正12年第2次山本内閣の法相。13年右翼結社国本(こくほん)社を結成。昭和14年組閣したが,独ソ不可侵条約の締結を機に総辞職。のち第2・第3次近衛内閣の国務相。戦後,A級戦犯容疑で終身禁固刑。昭和27年8月22日死去。84歳。美作(みまさか)(岡山県)出身。帝国大学卒。
格言など】欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた(独ソ不可侵条約締結に際し)

出典:講談社
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世界大百科事典 第2版

ひらぬまきいちろう【平沼騏一郎】
1867‐1952(慶応3‐昭和27)
司法官,政治家。岡山に生まれる。1888年東京帝国大学法科を卒業し,判事となる。東京控訴院部長を経て検事に転じ,1911年司法次官,12年より21年まで検事総長,23年第2次山本権兵衛内閣の司法大臣を歴任。虎の門事件に衝撃をうけ,24年からは国家主義団体国本社を主宰(会長),同年には枢密顧問官に就任,翌年枢密院副議長となり,台湾銀行救済問題,ロンドン条約批准問題などで政府を苦しめた。満州事変後には首相候補者として右翼・軍部から期待されるようになったが,元老西園寺公望は彼の右翼色を忌避した。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

ひらぬまきいちろう【平沼騏一郎】
1867~1952 政治家。岡山県生まれ。東大卒。検事総長・大審院長・法相をつとめ、1936年(昭和11)枢密院議長。右翼団体「国本社」を創始。39年組閣、独ソ不可侵条約の成立で辞職した。次いで近衛内閣の国務相。戦後 A 級戦犯として終身刑。

出典:三省堂
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

平沼騏一郎
ひらぬまきいちろう
[生]慶応3(1867).9.28. 美作,津山
[没]1952.6.14. 東京
政治家。東京帝国大学卒業後,司法省に入り,司法界の要職を歴任。検事総長時代,東京市の砂利疑獄事件,満鉄事件などを指揮し司法界切っての地位を築いた。その後 1923年には山本権兵衛内閣の司法相に就任。 24年枢密顧問官となったが,おりからの社会主義運動の発展に対抗して右翼結社国本社を主宰。 39年1月近衛文麿内閣のあとをうけて首相に就任したが,独ソ不可侵条約成立すると国際情勢の見通しを誤ったとして同年8月辞職。 40~41年第2次近衛内閣の国務相,内相,第3次同内閣の国務相などをつとめた。第2次世界大戦後,極東国際軍事裁判A級戦犯となり終身刑を宣告されたが,健康上の理由で仮出所を許され,のち病死した。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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日本大百科全書(ニッポニカ)

平沼騏一郎
ひらぬまきいちろう
(1867―1952)
司法官僚出身の政治家。津山藩士の子として岡山県に生まれる。1888年(明治21)帝国大学法科卒業後、判事となり、東京控訴院部長を経て検事に転じた。政党勢力に対して峻厳(しゅんげん)な方針をとり、1907年(明治40)の日糖疑獄では多数の政党政治家が起訴された。1911年西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣の司法次官となり、検事総長、大審院長を歴任。1923年(大正12)第二次山本権兵衛(やまもとごんべえ)内閣の法相となるが、同年12月の虎の門事件(とらのもんじけん)に衝撃を受け、翌1924年5月、皇室中心主義の修養団体、国本社(こくほんしゃ)を結成する。国本社には陸海軍将官、高級司法官僚、枢密院、貴族院などの有力者が参集し、平沼は政界に隠然たる勢力を築いた。1925年枢密院副議長となり、金融恐慌問題、ロンドン軍縮条約問題では政府を攻撃し、政党内閣の基盤を掘り崩した。1931年(昭和6)の満州事変勃発(ぼっぱつ)後、右翼や軍部の間から平沼内閣を求める声が広まったが、元老西園寺はこれを忌避していた。1936年枢密院議長になると国本社を解散し、政権担当を目ざした。1939年1月第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣の後を受けて組閣、日独軍事同盟の成立に苦心したが、独ソ不可侵条約の締結によって「複雑怪奇」の声明を残して総辞職した。以後、第二次、第三次近衛内閣の国務相を務め、太平洋戦争期には重臣の一人として東条英機(とうじょうひでき)内閣の倒壊工作にも関与した。敗戦直前のポツダム宣言受諾をめぐる御前会議では、陸軍側の4条件案に反対し、和平条件を国体護持のみに絞ることを主張した。戦後、極東国際軍事裁判でA級戦犯として終身禁錮を宣告され、昭和27年8月、服役中に病死。終生、独身であった。[小田部雄次]
『平沼騏一郎回顧録編纂委員会編『平沼騏一郎回顧録』(1955・学陽書房) ▽岩崎栄著『伝記叢書268 平沼騏一郎伝――伝記・平沼騏一郎』(1997・大空社) ▽御厨貴監修『歴代総理大臣伝記叢書26 平沼騏一郎』(2007・ゆまに書房)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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精選版 日本国語大辞典

ひらぬま‐きいちろう【平沼騏一郎】
政治家。津山藩(岡山県)出身。帝国大学法科卒。判事・検事総長・大審院長・第二次山本内閣法相・枢密院議長などを歴任。昭和一四年(一九三九)組閣。ついで第二、第三次近衛内閣国務相。この間、右翼団体国本社を主宰。第二次世界大戦後A級戦犯として終身禁固服役中病死。慶応三~昭和二七年(一八六七‐一九五二

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