●平泉文化【ひらいずみぶんか】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
平泉文化
ひらいずみぶんか
平安時代末期,奥州藤原氏が支配した現在の平泉町を中心に栄えた文化。嘉保年間 (1094~96) に藤原清衡が江刺郡からここに本拠を移したときから始るとされる。清衡は中尊寺,基衡は毛越寺,秀衡は無量光院を建立し,贅を尽した荘厳のありさまは藤原道長の法成寺,頼通の平等院に比肩するもので,まさしく地上に極楽浄土を再現したごとくであったという。現在中尊寺金色堂,経蔵,毛越寺庭園など当初の建造物,史跡を残すほか,仏像,絵画,工芸品,経巻など数多くの遺品が伝存している。
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世界大百科事典 第2版
ひらいずみぶんか【平泉文化】
平安時代末の12世紀,奥州藤原氏代の保護のもとに,その居館のあった平泉を中心に開花した仏教文化。平泉は,その盛時には中尊寺(ちゆうそんじ),毛越寺(もうつじ),無量光院(むりようこういん)などの大寺院が甍(いらか)を並べ,日吉,白山,祇園,王子,北野天神,金峰山,今熊野,稲荷などの諸社が計画的に配置された都市であった。 中尊寺は藤原清衡(きよひら)によって1105年(長治2)に着工され,26年(大治1)3月24日に落慶供養が行われた天台系の寺院で,このときの堂宇は,供養願文によれば三間四面の檜皮葺堂1宇,三重塔3基,二階瓦葺経蔵1宇,二階鐘楼1宇というものであったが,《吾妻鏡》の文治5年(1189)9月17日条では,寺塔60余宇,禅坊300余宇といわれている。
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