●平泉【ひらいずみ】
知恵蔵
平泉
平泉一帯は、11世紀末に奥州藤原氏の初代清衡が、岩手県南部の江刺から拠点を移した地と言われている。それまではこの土地を豪族の安倍氏が支配していたが、朝廷に反発したことがきっかけで1051年から62年にかけて前九年の役が始まる。1053年に源頼義が陸奥国守として赴任、安倍氏を牽制(けんせい)した。
一時期は安倍氏側が優勢だったが、出羽国(現在の秋田~山形県)の豪族・清原氏が頼義側に加担したことで形勢は逆転、頼義側の勝利に終わった。安倍氏は処罰され滅亡する。ところが戦功を挙げた源頼義は伊予守に配置替えとなり、奥州を支配したのは清原武則だった。
藤原清衡の父・経清は安倍氏に加担したため戦後処刑され、息子の清衡も同様に処刑されるはずだったが、母が清原氏に嫁いだことで命拾いをする。しかし、母が清原氏との間に真衡・家衡の2人の息子を生んだため、相続争いが勃発。更に源頼義の息子の義家が清原一族の内紛に介入することで、1083年から後三年の役が始まる。真衡・家衡の敗死に伴い、87年に戦いは終結。それ以降、清衡は陸奥の奥六郡と出羽の山北三郡の支配権を得る。拠点を平泉に移し、1124年に「今後、戦争のない世になるように」との願いを込めて中尊寺を建立した。奥州は金の産出が豊富で、中尊寺の金色堂は外面、内面、須弥壇(しゅみだん)まで金箔で覆われている。ちなみに最近の研究では、マルコ・ポーロが『東方見聞録』に記した「黄金の国・ジパング」は平泉の中尊寺や毛越寺などに施された黄金を指している可能性が高いと言われている。
28年、清衡は中尊寺で眠るように亡くなり、遺体は金色堂に葬られた。清衡の遺志を継いで、二代基衡は毛越寺を、三代秀衡は無量光院を建立する。初代清衡から三代秀衡まで約100年間、奥州を藤原氏が治めたが、平安末期、兄である源頼朝との不和のため、源義経が奥州に潜伏。1189年、四代泰衡は義経を大将とするようにという秀衡の遺言にもかかわらず、義経を自害に追い込む。その後、義経を匿ったとして頼朝軍が奥州に押し寄せ、これにより奥州藤原氏は滅亡した。平泉の中尊寺・毛越寺などの寺院や庭園は藤原氏三代が仏教に基づく極楽浄土の理想世界の実現を目指して造営された。これら建造物が浄土思想を表現する目的で創造された独特の事例であることが評価され、2011年6月に世界文化遺産に登録された。登録対象は中尊寺・毛越寺・観自在王院跡・無量光院跡・金鶏山である。平泉は08年にも登録を申請したが見送られ、今回念願の登録が実現した。日本国内の世界遺産としては16件目に当たる。11年3月に起こった東日本大震災の影響で観光客が減っている東北地方にとって大きな喜びとなり、地元平泉町では「観光風評被害対策プロジェクトチーム」を設け、観光客の誘致にも力を入れている。
(金廻寿美子 ライター / 2011年)
出典:(株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」
朝日新聞掲載「キーワード」
平泉
(2008-05-23 朝日新聞 夕刊 1社会)
出典:朝日新聞掲載「キーワード」
デジタル大辞泉
ひらいずみ〔ひらいづみ〕【平泉】
出典:小学館
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
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[日本酒・本格焼酎・泡盛]銘柄コレクション
ひらいずみ【平泉】
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精選版 日本国語大辞典
ひらいずみ ひらいづみ【平泉】
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旺文社日本史事典 三訂版
平泉
ひらいずみ
1094年藤原清衡が居館を構えて以来,藤原3代の栄華の都として繁栄。京の藤原文化が移入され,中尊寺・毛越 (もうつ) 寺・無量光院などが建てられたが,藤原氏滅亡とともに荒廃した。
出典:旺文社日本史事典 三訂版
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