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年貢【ねんぐ】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

年貢
ねんぐ
(1) 日本の中世において,荘園領主が領内の農民 (名主) に賦課した米。令制の租の後身。 (2) 近世封建領主がその領知の高請地に賦課した租税現物納を原則とし,の場合には米納であったが,の場合には,現物のほか,金銀銭などで納めさせることが多かった。年は村に対して課せられ,村ではそれを村内の地主に割当てた。税率は江戸時代中期以後,幕府では5割,諸藩では6割が普通であった。小作人が地主に納める小作米をも年貢と称したことがある。 (→郷帳 , 年貢皆済目録 , 年貢割付状 )

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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デジタル大辞泉

ねん‐ぐ【年貢】
荘園領主・封建領主が農民に課した租税。平安末期に始まり、江戸時代には物成(ものなり)といって、原則として田の年貢は米、畑の年貢は現物と金納であったが、しだいに金納化した。明治以後、地租改正廃止
明治以後、小作料のこと。

出典:小学館
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:田中牧郎、曽根脩
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世界大百科事典 第2版

ねんぐ【年貢】
領主が毎年農民から取り立てた貢租。
【中世】
 荘園において田畠を耕作する者は,荘園領主に生産物の一部を貢納する義務をもっていた。この貢納物が年貢であるが,平安時代から鎌倉時代にかけては所当(しよとう)とか乃貢(のうぐ)あるいは土貢(どこう)などと呼ばれることも多かった。畠の年貢は地子(じし)と呼ばれている。田の年貢は原則として米納であったが,室町時代には銭納化したところが多かった。 初期荘園系譜をひく園では,早くから収穫量に応じた反別(たんべつ)の年貢量(斗代(とだい))が決められており,たとえば大和国東大寺領櫟(いちい)荘では,1137年(保延3)の検田帳によると2斗代,3斗代,4斗代,5斗代,6斗代の5段階になっていた。

出典:株式会社平凡社
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日本大百科全書(ニッポニカ)

年貢
ねんぐ

中世から近世にかけて行われた税。乃貢(のうぐ)、官物(かんもつ)、所当(しょとう)、物成(ものなり)も同義語として使用されることがある。

[飯沼賢司]

荘園制下の年貢

律令(りつりょう)制下では租(そ)・庸(よう)・調(ちょう)・雑徭(ぞうよう)等の税目があったが、平安中期、律令制が解体する過程で、田率賦課の官物、臨時雑役(ぞうやく)の二系統の税目が登場し、11世紀中期以降、荘園(しょうえん)体制が確立するなかで前者の系統から年貢という税が成立したと考えられる。文書上の年貢の語の初見は11世紀末期で、12世紀には「ねんく」という平仮名書きがみえ、「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」の最古の注釈書「唯浄裏書(ゆいじょううらがき)」には「トシトシニタテマツル」の訓(よ)みがある。中世では公事(くじ)と並ぶ税で、公事が用途指定的、臨時的税であるのに対して、毎年の「たてまつりもの」と理解されていた。また、公事はもともと国家的・准国家的行事、造営の用途を荘園に賦課したものであるのに対して、年貢は官物などの公的な税の系譜を引くが、荘園領主が徴収するもので、荘園や領主によって徴収のあり方は異なっていた。荘園領主は検注によって荘園の定田(じょうでん)数とその田の等級(上田・中田・下田(げでん)など)を確定し、この田数と等級による斗代(とだい)(段当り年貢収納高)に基づいて年貢を賦課していた。したがって、米が年貢の主品目であることは間違いないが、地域によってその品目はさまざまであった。たとえば、八丈絹(はちじょうぎぬ)(美濃(みの)国)、白布(信濃(しなの)国)、紙(但馬(たじま)国)、榑(くれ)(周防(すおう)国)、金(陸奥(むつ)国)、塩(瀬戸内海地域)、鉄、牛、馬、水産物などがある。このことは、年貢が、田の生産物=米の徴収を目的にしたものというより、田を基準としてさまざまな産物を徴収した制度であることを端的に示している。

 ところで、年貢は確定された田数によって名田(みょうでん)に賦課され、1年ごとに進未結解(しんみけちげ)(決算)が行われた。未進分はその年貢を請け負った地頭(じとう)・名主(みょうしゅ)・百姓等の負債となったため、これをめぐって彼らはしばしば荘園領主と対立した。ことに鎌倉後期は年貢未進をめぐる地頭と荘園領主の相論が激化し、南北朝期以降はこれに加えて名主・百姓の年貢減免闘争が表面化することになった。

[飯沼賢司]

室町・戦国期の年貢

南北朝期以降、年貢は守護請の進行によって守護大名に横領されるようになる。一方、畿内(きない)近国では、惣(そう)とよばれる自治的組織が主体となって年貢を請け負い、荘園領主が直務(じきむ)支配を行うケースもあった。戦国期には、戦国大名の領国形成の過程で、守護権は大名権力のなかに吸収され、惣は、土豪(どごう)・地侍(じざむらい)の被官化によって、大名権力によって組織される方向に進んだ。しかし、戦国大名がその財源として年貢を手中にしたとはいえない。すなわち、戦国大名の検地については議論があるが、その検地はどうみても部分的であり、内容においても、不十分であったと考えられるからである。したがって、年貢相当分の多くは、生産の向上もあって、加持子(かじし)・内徳(ないとく)などとして在地(ざいち)に残されていたが、戦国大名は、段銭(たんせん)・棟別銭(むなべつせん)という別の方式によって、在地から収奪を行わざるをえなかったのではないかと考えられる。

[飯沼賢司]

江戸期の年貢

幕藩制下の民衆の普遍的な負担は、身分制に基づき、身分・職分に応じて賦課された「役(やく)」負担で、年貢は、そのうちとくに百姓身分に義務づけられた農業生産物による現物地代である。ただし年貢は、当時の人口の大部分を占める百姓に賦課されたという意味からも、幕藩制国家の経済的基盤をなす租税としての性格を付与されており、百姓の負担のなかではむしろ諸「役」以上に重要な義務と規定されていた。

 年貢には、正租としての本途物成(ほんとものなり)と、雑租としての小物成(こものなり)との区別があった。本途物成は、田畑屋敷地に対して賦課され、原則として米納であったが、畑方ないし3分1といった部分的金納(貨幣納)が行われ、また百姓の石代納(こくだいのう)要求により漸次金納へ移行する傾向にあった。小物成は、山林・原野・河海の用益に対して賦課され、比較的早い段階で金納化されていた。

 近世の年貢収取体制の基本原則をつくりあげたのは、全国統一を成し遂げた豊臣(とよとみ)秀吉で、彼は圧倒的な軍事力を背景として、度量衡を統一し、全国規模での太閤(たいこう)検地を実施した。その意図は、田畑の実際の耕作者を名請人(なうけにん)(所持者)として直接に掌握し(一地一作人の原則)、中世以来の重層的な中間搾取(職(しき))の体系を排除することと、田畑一筆ごとに畝歩(せぶ)(面積)・石盛(こくもり)(反当収量)を測定し、石高(こくだか)(畝歩に石盛を掛けたもの)という全国共通の年貢の賦課基準(石高制)をつくりだすことにあった。そのうえで、年貢賦課率を持高の3分2(二公一民)と公定したが、これは、実際の年貢率というよりも、秀吉の国家構想における新たな年貢規定に伴うきわめて観念的な数値と理解される。むしろこれを具体化したのは徳川家康で、彼は、「百姓は、死なぬ様に生きぬ様に」すなわち、全剰余労働部分搾取を原則とした。近世前期に広範にみられた徴租法である畝引検見法(せびきけみほう)は、年貢量をその年々の豊凶にしたがって調整することができ、より精密に全剰余労働部分収奪を行うものであった。また、幕府の享保(きょうほう)の改革においては、一時増徴を目ざして石盛にかかわりなく年貢を賦課できる有毛(ありげ)検見法が試みられた。これに対し、百姓の生産力拡大の努力の成果たる剰余労働部分を確保しようとする対領主闘争は、百姓一揆(いっき)となって現れ、その結果、藩領ではおおむね享保期(1716~36)、そして幕領でも宝暦(ほうれき)期(1751~64)に年貢量は頭打ちになった。こうした状況に対応した徴租法として、近世後期には定免(じょうめん)法が一般化した。

 年貢収取の方法は、近世初期には、村共同体として請ける村請と並んで、有力な土豪による個人請が混在していたとみられるが、初期幕藩体制の危機としての寛永(かんえい)の飢饉(ききん)下で相次いで出された幕府農政法令においては、後者は否定され、年貢の村請制が体制的に確立した。村請制とは、領主が村に対し年貢の村総量を賦課するにとどまり、村の内部での個別百姓の勘定には介入しない体制である。この村請制が民衆支配にとってもつ意味は、年貢未進が出た場合、村共同体の連帯責任において未進を補填(ほてん)させられることであるが、さらに年貢負担に対する百姓の不満が、年貢勘定をめぐる村方騒動へと導かれ、それにより不満が直接幕藩領主に向かうのをそらすという機能ももっていた。

 明治期になると、維新政府は当初、近世の年貢収取体制をそのまま受け継ぐが、地租改正によって現物地代たる年貢は廃止され、金納貢租たる地租にかわった。その後は、年貢の語は、地主に納める現物小作料の意味で用いられるにとどまった。

[斉藤善之]

『永原慶二著『日本中世社会構造の研究』(1973・岩波書店)』『網野善彦著『中世の負担体系』(永原慶二他編『中世・近世の国家と社会』所収・1986・東京大学出版会)』『峰岸純夫著『年貢・公事と有徳銭』(『日本の社会史4』所収・1986・岩波書店)』『古島敏雄著『近世経済史の基礎過程』(1978・岩波書店)』『安沢秀一著『近世村落形成の基礎構造』(1972・吉川弘文館)』『松下志朗著『幕藩制社会と石高制』(1984・塙書房)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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精選版 日本国語大辞典

ねん‐ぐ【年貢】
〘名〙
① 田畑の耕作者がその領主に対して生産物の一部を貢納すること。またその物。正税であり、雑税である公事(くじ)とは区別される。平安・鎌倉時代には所当(しょとう)・乃貢(のうぐ)・乃米(のうまい)・土貢(とこう)などとよばれることが多く、田の年貢は米で、畑の年貢は麦・蕎麦・大豆などで納められた。室町時代に入って年貢の呼称が広く定着し銭納される場合もあった。江戸時代には年貢とも物成(ものなり)ともいい、田は米で、畑は米以外の現物か代金納が原則となった。《季・冬》
※小右記‐治安三年(1023)七月一六日「高田牧進年貢絹五十疋、米七十六石」 〔色葉字類抄(1177‐81)〕
② 小作料。
※小公子(1890‐92)〈若松賤子訳〉九「侯爵が小作人どもを知って御座るといっても、誰々が年貢(ネング)を滞りなく納め、誰々が納めぬといふこと丈に止まって」

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旺文社日本史事典 三訂版

年貢
ねんぐ
毎年の貢納物ので,田地にかかる租税
10世紀以降班田収授が行われなくなると,公領・荘園では租・調に代わって年貢・公事 (くじ) ・夫役を課した。年貢は田地に課せられ,米を主とする現物納が原則であったが,鎌倉中期から銭納も始まり,室町時代に年貢の呼称が一般化し,また分銭 (ぶんせん) (銭納)・分米 (ぶんまい) (米納)ともいった。江戸時代には,本途物成 (ほんとものなり) (荘園の年貢に相当)・小物成(公事に相当)を総称し,現物納が原則であった。明治時代以降,地租・租税が公に用いられ,年貢は地主への小作料の別称となった。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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