●幸野楳嶺【こうの ばいれい】
美術人名辞典
幸野楳嶺
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デジタル大辞泉
こうの‐ばいれい〔カウの‐〕【幸野楳嶺】
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus
幸野楳嶺 こうの-ばいれい
天保(てんぽう)15年3月3日生まれ。中島来章(らいしょう),塩川文麟(ぶんりん)らにまなび,花鳥画を得意とした。明治13年京都府画学校の設立に参加。竹内栖鳳(せいほう),川合玉堂(ぎょくどう),上村松園(しょうえん)らをそだてる。明治28年2月2日死去。52歳。京都出身。本姓は安田。名は直豊。代表作に「帝釈試三獣図」,著作に「百鳥画譜」など。
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世界大百科事典 第2版
こうのばいれい【幸野楳嶺】
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
幸野楳嶺
こうのばいれい
[没]1895.2.2. 京都
日本画家。本姓は安田,幼名は角三郎のち直豊,字は思順,号は楳嶺,鶴鹿園など。中島来章に円山四条派を,のち塩川文麟に山水画を学んだ。明治維新の頃は貧しかったが,神山鳳陽に漢籍を,中西耕石,前田暢堂に南画を学んで一家をなした。また私塾を開き,門下には竹内栖鳳,菊池芳文,川合玉堂,上村松園らがいる。 1890年第3回内国勧業博覧会審査員,93年帝室技芸員。主要作品『百福図』 (1874) ,『田家図』 (93,東京国立博物館) ,『帝釈試三獣図』。
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日本大百科全書(ニッポニカ)
幸野楳嶺
こうのばいれい
(1844―1895)
日本画家。京都に生まれる。本姓は安田。本名は直豊。字(あざな)は思順。号は楳嶺。別号に鶯夢、長安堂、鶴鹿園などがある。9歳で円山(まるやま)派の中島来章(らいしょう)の門に入り、梅嶺と号した。その後さらに四条派の塩川文麟(ぶんりん)につき、号を楳嶺と改めた。明治維新のころは極貧であったが、漢籍を神山鳳陽に学び、また文人と交わり、中西耕石、前田暢堂に南画を学んで一家をなし、とくに花鳥画を得意とした。1880年(明治13)に望月玉泉(ぎょくせん)らと京都府立画学校を設立し、出仕した。また京都青年絵画研究会、京都美術協会を組織するなど、日本画の発展と後進の指導に尽力した。その門より京都画壇を代表する竹内栖鳳(せいほう)、菊池芳文(ほうぶん)、川合玉堂、都路華香(つじかこう)、上村松園(うえむらしょうえん)らの画家が多数輩出した。93年に帝室技芸員となった。
[玉蟲玲子]
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精選版 日本国語大辞典
こうの‐ばいれい【幸野楳嶺】
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