●彰考館【しょうこうかん】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
彰考館
しょうこうかん
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デジタル大辞泉
しょうこう‐かん〔シヤウカウクワン〕【彰考館】
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世界大百科事典 第2版
しょうこうかん【彰考館】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
彰考館
しょうこうかん
水戸(みと)藩の修史局。徳川光圀(みつくに)は世子時代の1657年(明暦3)初めて史局を江戸駒込(こまごめ)の水戸藩中屋敷(東京大学農学部敷地)に開いたが、十数年後、藩主時代の1672年(寛文12)それを小石川の本邸内(東京の後楽園はその庭園)に移して彰考館と名づけた。これによって『大日本史』の編纂(へんさん)は本格的となった。館名は、中国の学者杜預(どよ)の左伝の序「彰往考来」の語句に由来する。館には、光圀の招きに応じて全国から多くの学者が集まり、多いときは60名を超えたこともある。1683年(天和3)以来、1~数名の総裁が置かれた。なかには知名の学者も少なくない。1698年(元禄11)には同館の主体は水戸城内に移された。これは、光圀が引退し、水戸に近い西山荘(そう)(常陸太田(ひたちおおた)市)にあって修史の監修にあたる必要があったためである。以後、彰考館は江館(こうかん)(小石川邸内)と水館(すいかん)(水戸城内)の2館に分かれて編纂が進められた。光圀に続く第3代綱條(つなえだ)以後は館員も減少し、修史事業も衰えたが、第6代治保(はるもり)時代に復興し、9代斉昭(なりあき)は江館をやめて水館にまとめた。1871年(明治4)閉館同然となったが、徳川家は栗田寛(くりたひろし)らに委嘱して79年同館を再開、『大日本史』志表の脱稿に努めた。1906年(明治39)同書の完成によって修史局としての彰考館は閉鎖された。
[瀬谷義彦]
『栗田勤著『水藩修史事略』(1928・大岡山書店)』
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精選版 日本国語大辞典
しょうこう‐かん シャウカウクヮン【彰考館】
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旺文社日本史事典 三訂版
彰考館
しょうこうかん
1657年から江戸駒込別邸内に史局を設け編纂を開始したが,'72年小石川の本邸に史局を移し,彰考館と命名した。光圀の死後水戸にも置かれたが,1830年徳川斉昭が水戸に統一した。光圀自身も出勤し多くの儒者・筆生を集め,修史事業のほか,経書の講義も行われた。
出典:旺文社日本史事典 三訂版
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