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後ウマイヤ朝【こうウマイヤちょう】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

後ウマイヤ朝
こうウマイヤちょう
Umayya
コルドバ・カリフ国とも呼ばれる。スペインにあったイスラム王国 (756~1031) 。アッバース朝に敗れたウマイヤ家のアブドゥル・ラフマーン1世 (在位 756~788) がイベリア半島に逃れ,ウマイヤ朝再建コルドバを首都とした。アブドゥル・ラフマーン3世 (在位 912~961) のときカリフ (→アミール・アルムーミニーン ) の称号を用い (929) ,東のアッバース朝カリフと対立した。その後は勢力に衰えをみせたが,ヒシャーム2世の時代に宰相マンスール (→アルマンソル ) の独裁的支配 (981~1002) が行われ,キリスト教諸王国の国土回復運動 (レコンキスタ) に対抗して傭兵制によるめざましい勝利の一時期を得た。 1031年に後ウマイヤ朝は滅び,20の小王国に分裂した。同朝治下のスペインでイスラムの文化がキリスト教世界に与えた影響は大きい。

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世界大百科事典 第2版

こうウマイヤちょう【後ウマイヤ朝 Umayya】
イベリア半島における最大・最長のイスラム王朝で,同地のイスラム化に最も貢献した。756‐1031年。ウマイヤ朝第10代カリフ,ヒシャームのアブド・アッラフマーン1世が,アッバース朝の追手を逃れて,756年総督ユースフを破り,コルドバでアミールを宣して以来,1031年の滅亡まで,24代(19人)の君主のうち16人までがウマイヤ家出身者であったので,日本では後ウマイヤ朝と通称される。アブド・アッラフマーン1世は,カリフではなくてアミールと自称したが,それは彼の王朝がまだアッバース朝と比肩できず,またイスラム国家は一つで,しかも1人のカリフによって治められなければならないという伝統を重んじたからである。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

ごウマイヤちょう【後ウマイヤ朝】
スペインのスンナ派イスラム王朝(756~1031)。シリアのウマイヤ朝の滅亡後、その一族のアブドゥル=ラフマーン一世がスペインに逃れて建国し、アラブの灌漑技術を導入して生産力を高め、東のアッバース朝に対立した。都のコルドバは西方イスラム文化の中心。西カリフ国。新ウマイヤ朝。

出典:三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)

後ウマイヤ朝
こううまいやちょう
イベリア半島にあったイスラム王国(756~1031)。アッバース朝によるウマイヤ家一族の虐殺の難を逃れたアブドゥル・ラフマーン1世がイベリア半島に渡り、756年に建国した。首都はコルドバ。史料では「アル・アンダルス(イベリア半島におけるイスラム教徒の領地)のウマイヤ朝」または「コルドバのウマイヤ朝」とよばれる。支配層はアラブ人とベルベル人から構成されたが、少数のアラブ人が多数のベルベル人より政治的、経済的に優位にたっていた。土着のスペイン人とユダヤ教徒は被支配層を形成したが、前者のうちイスラムへの改宗者はムサーリム、生まれながらのムスリム(イスラム教徒)はムワッラド、キリスト教徒のままでアラブ化した者はモサラベとよばれた。このような構成民族と宗教の多様さは、建国の初めから治安を乱す要因であった。この問題に対し、代々のアミールまたはカリフは自己の権力強化のためにスラブ人やフランク人の奴隷兵(サカーリバ)を重用し、また国内の不満を外に向けて国内統一と安定を得るために、北方のキリスト教徒地域への聖戦(ジハード)を行った。国内統一と繁栄の基礎が築かれたアブドゥル・ラフマーン2世の時代(822~852)と、彼の死後の混乱期を経て、アブドゥル・ラフマーン3世の時代(912~961)に最盛期に達した。チュニジアのファーティマ朝に対抗してカリフを名のるようになったのも、彼の治世からである。王朝の経済的基礎は、北方のキリスト教国や北アフリカや東方イスラム地域との交易活動、織物、金銀や革細工、陶器などの手工業、オレンジやサトウキビやワタなどを栽培する農業にあった。中央行政はアミール(カリフ)の絶対的権限下に、ハージブ(侍従の意。権能は大宰相)を中心に複数のワジール(宰相)が担当した。20余の県(クーラ)はそれぞれワーリー(長官)によって統治された。
 文化面では、アッバース朝との政治的対立にもかかわらず、つねに東方イスラム世界の影響を受け、歌手のジルヤーブ(857没)や学者のアブー・アリー・アル・カーリー(965没)などがバグダードから来住した。しかし王朝後期には、『アル・イクドル・ファリード(無類の頸(くび)飾り)』の著者であるイブン・アブド・ラッビヒ(940没)やイブン・ハーニウ(973没)らのアル・アンダルス出身の著名な詩人が出現した。法学では、ハカム1世がマーリキー学派を公認してから同派が主流になった。建築では、40万冊を収めていたといわれる図書館(ハカム2世建設)、コルドバの大モスク、ザフラーの宮殿(コルドバの西6キロメートル)などが芸術的水準の高さを誇っている。
 976年ヒシャーム2世が11歳で即位してから、政治の実権はワジールやハージブに移り、ハージブ職についたアーミル家の独裁時代(981~1008)ののち、無政府状態となって1031年に王朝は滅亡した。[私市正年]

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精選版 日本国語大辞典

ご‐ウマイヤちょう ‥ウマイヤテウ【後ウマイヤ朝】
(ウマイヤはUmayya) 七五六年、アブドゥル=ラフマーン一世がスペインのコルドバに再興した王朝。一〇世紀に黄金時代を築き学術・文化が栄えたが、一〇三一年内乱により滅亡。新ウマイヤ王朝。西カリフ帝国。

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旺文社世界史事典 三訂版

後ウマイヤ朝
こうウマイヤちょう
Umayya
756〜1031
イベリア半島に建てられたイスラーム王国。新ウマイヤ朝,西カリフ国の別称がある
ウマイヤ朝がアッバース朝に滅ぼされたとき,亡命に成功した一族のアブド=アッラフマーン1世がコルドバに都して独立。以後,フランク王国の圧力やノルマン人の侵入を排して国力拡大をはかり,第8代アブド=アッラフマーン3世は黄金時代を築いた。成立当初はアミールを名のっていたが,カリフを称したファーティマ朝に対抗して,アブド=アッラフマーン3世よりカリフを名のるようになった。当時コルドバは人口50万以上の大都会として繁栄したが,11世紀に小国家に分裂して滅亡。イベリア半島のイスラーム化をすすめ,イスラーム文化や西ゴート様式,ビザンツ様式の融合した文化が成立した。

出典:旺文社世界史事典 三訂版
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デジタル大辞泉

こう‐ウマイヤちょう〔‐テウ〕【後ウマイヤ朝】
スペインのイスラム王朝。→ウマイヤ朝

出典:小学館
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