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後鳥羽天皇【ごとばてんのう】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

後鳥羽天皇
ごとばてんのう
[生]治承4(1180).7.14. 京都
[没]延応1(1239).2.22. 隠岐
第 82代の天皇 (在位 1183~98) 。名は尊成 (たかひら) 。高倉天皇第4皇子。母は准后七条院藤原殖子 (やすこ。坊門信隆の娘) 。寿永2 (83) 年安徳天皇が平氏に擁されて都落ちしたのち,祖父後白河法皇の意向で皇嗣に選ばれ践祚。建久3 (92) 年法皇の崩御後は天皇親政とし,同9年為仁 (土御門天皇) に譲位し,上皇として院政を行なった。この間親幕派九条兼実を退け,土御門通親を重用して幕府圧力の排除を企図し,一方西面の武士を新設して武力の充実に努めた。子順徳天皇らと討幕を計画し,承久の乱となったが,幕府に完敗して隠岐に流され同島で没した。初め顕徳院の諡号が贈られたが,怨霊出現の世評により,後鳥羽院と改称された。文武諸道に秀で,ことに和歌にすぐれて長者と仰がれ,歌会,歌合も盛んに催したが,千五百番歌合は最大のものとして名高い。また藤原定家らに『新古今和歌集』を撰せしめ,配流ののちもみずから撰を続け,『隠岐本新古今集』を完成した。日記に『後鳥羽天皇宸記』がある。陵墓は京都市左京区大原勝林院町の大原陵。島根県隠岐郡海士町に火葬塚がある。

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デジタル大辞泉

ごとば‐てんのう〔‐テンワウ〕【後鳥羽天皇】
[1180~1239]第82代天皇。在位1183~1198。高倉天皇の第4皇子。名は尊成(たかなり)。祖父後白河法皇院政下、神器継承なしに即位し、譲位後、土御門(つちみかど)順徳仲恭(ちゅうきょう)3帝にわたって院政を執った。北条義時追討を謀って承久の乱を起こしたが失敗、隠岐(おき)に流された。諡号(しごう)ははじめ顕徳院、のち後鳥羽院。蹴鞠琵琶などの芸能や和歌にもひいで、新古今集勅撰。日記「後鳥羽院宸記」がある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

後鳥羽天皇 ごとばてんのう
1180-1239 鎌倉時代,第82代天皇。在位1183-98。
治承(じしょう)4年7月14日生まれ。高倉天皇の第4皇子。母は藤原殖子(しょくし)(七条院)。安徳天皇が平氏とともに西国にのがれたため,祖父後白河法皇の命で神器なしに4歳で践祚(せんそ)し,一時天皇がふたりとなった。19歳で譲位した後,土御門・順徳・仲恭天皇の3代23年間院政をしいた。鎌倉幕府の打倒をくわだてたが敗れ(承久(じょうきゅう)の乱),隠岐(おき)に流され,延応元年2月22日配所で死去。60歳。詩歌・書画にすぐれ,藤原定家らに「新古今和歌集」をつくらせた。墓所は大原陵(おおはらのみささぎ)(京都市左京区)。諱(いみな)は尊成(たかひら)。法名は良然。別名に顕徳院,隠岐(おきの)院。
格言など】人もをし人も恨めし味気(あじき)なく世を思ふゆえに物おもふ身は(「小倉百人一首」)

出典:講談社
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書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版

ごとばてんのう【後鳥羽天皇】
1180‐1239(治承4‐延応1)
第82代に数えられる天皇。在位1183‐98年。高倉天皇の第4皇子。名は尊成。母は坊門信隆の娘殖子(七条院)。1183年(寿永2)平氏が安徳天皇を伴って都落ちした後,祖父後白河法皇の詔によって践祚。践祚の後も後白河法皇が院政を行ったが,92年(建久3)法皇の没後は,法皇と対立していた関白九条兼実が実権を握った。源通親ら法皇の旧側近はこれと対立し,96年通親は策謀によって兼実を失脚させ政権を握った。98年後鳥羽天皇は通親の外孫にあたる皇子為仁(土御門天皇)に譲位,上皇として院政をはじめ,1221年(承久3)まで,土御門・順徳・仲恭天皇の3代にわたり院政を行った。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

ごとばてんのう【後鳥羽天皇】
1180~1239 第八二代天皇(在位1183~1198)。名は尊成たかひら。高倉天皇の皇子。土御門つちみかど天皇に譲位後、三代にわたって院政を行う。1221年(承久3)北条義時追討の院宣を発して鎌倉幕府打倒を試みたが失敗(承久の乱)。隠岐おきに配流され、その地で没した。はじめ顕徳院と諡号しごうされ、のち後鳥羽院と改められた。多芸多才で蹴鞠けまり・琵琶びわ・箏そうなどに秀で、特に和歌をよくし、和歌所を設置し、「新古今和歌集」を撰した。隠岐院。歌集「後鳥羽院御集」、歌論集「後鳥羽院口伝」、日記「後鳥羽院宸記」などがある。

出典:三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)

後鳥羽天皇
ごとばてんのう
(1180―1239)
第82代の天皇(在位1183~98)。名は尊成(たかひら)。高倉(たかくら)天皇の第4皇子。母は坊門信隆(ぼうもんのぶたか)の女(むすめ)殖子(しょくし)(七条院)。源平争乱の始まった年、治承(じしょう)4年7月14日誕生。1183年(寿永2)、安徳(あんとく)天皇が平氏に擁せられて都落ちしたため、4歳で践祚(せんそ)した。当時は後白河(ごしらかわ)法皇が朝廷の実権を掌握しており、やがて平氏が倒れて鎌倉幕府が成立したのちもしばらくは法皇による院政が続いた。1192年(建久3)法皇が没するに及んで、後鳥羽天皇の親政となったが、政務は、初めは関白(かんぱく)九条兼実(くじょうかねざね)の、ついで第1皇子為仁(ためひと)の外祖父(がいそふ)となった土御門通親(つちみかどみちちか)(源通親)のみるところであった。1198年、天皇は為仁親王(土御門天皇)に位を譲り、上皇として院政を開始した。時に19歳。上皇はしだいに不羈奔放(ふきほんぽう)の性質を発揮するようになり、1202年(建仁2)に通親が没して以後は専制君主として君臨、院政は順徳(じゅんとく)・仲恭(ちゅうきょう)両天皇の代まで及んだ。上皇は水無瀬(みなせ)(大阪府三島郡島本町)や宇治(うじ)(京都府宇治市)などに華麗な離宮を営み、あるいは各地へしばしば遊山旅行に出かけ、熊野参詣(さんけい)は10か月に一度という頻度であった。その途次で催された歌会の懐紙が熊野懐紙とよばれて伝存している。また上皇は文武にわたって多芸多能であった。歌人としては当代一流であり、『新古今和歌集』の撰定(せんてい)には自ら深く関与し、琵琶(びわ)、箏(そう)、笛、蹴鞠(しゅうきく)、囲碁、双六(すごろく)にも打ち込んだ。また流鏑馬(やぶさめ)、犬追物(いぬおうもの)、相撲(すもう)、水泳など武芸を好み、北面(ほくめん)に加えて西面(さいめん)の武士を置き、さらには自ら盗賊追捕(ついぶ)の第一線に加わったこともあった。この間上皇は、意のごとくならない幕府への反感をしだいに募らせていった。1208年(承元2)に詠まれた「奥山のおどろが下もふみわけて道ある世ぞと人に知らせん」という歌にも、上皇のそうした心情を読み取ることができる。またその前年、上皇は最勝四天王院(さいしょうしてんのういん)を建立したが、これは幕府を調伏(ちょうぶく)、呪詛(じゅそ)するためであったと伝えられる。
 1219年(承久1)鎌倉の将軍源実朝(さねとも)が横死すると、幕府はかねての黙契によって、後継将軍として上皇の皇子の東下を要請したが、上皇はこれを拒絶した。幕府の瓦解(がかい)を期待したのである。一方上皇は、寵姫(ちょうき)伊賀局(いがのつぼね)の所領である摂津国長江(ながえ)(兵庫県尼崎(あまがさき)市)、倉橋(くらはし)(大阪府豊中(とよなか)市付近)両荘(しょう)の地頭の廃止を要求したが、幕府に拒否された。かくして上皇は、順徳天皇や近臣たちと謀って、武力による討幕計画を推進することになった。承久(じょうきゅう)の乱である。21年5月14日、上皇は流鏑馬ぞろいと称して兵を召した。北面・西面の武士をはじめ、畿内(きない)・近国の武士が召しに応じ、また在京中の幕府御家人(ごけにん)たちも、さらには幕府の京都守護の一人源親広(ちかひろ)も院方に加わった。翌日、召しに応じなかったいま一人の京都守護伊賀光季(いがみつすえ)を討つと同時に、上皇は諸国に幕府執権北条義時(よしとき)の追討令を発した。しかし、上皇方の予想を完全に裏切って、東国武士で追討令に応じる者はなく、逆に北条泰時(やすとき)らに率いられた幕府軍が大挙京都に攻め上ってきた。その結果、追討令発布からわずか1か月後には、京都は幕府軍に占領され、上皇は鳥羽殿に幽閉され、7月に出家したのち、隠岐(おき)の島へ配流された。法名は金剛理あるいは良然。延応(えんおう)元年2月22日、配所の苅田(かった)で死去。60歳。御陵は島根県隠岐郡の海士(あま)町陵、京都市左京区大原来迎院(らいごういん)町の大原陵。[山本博也]
 文学の面においては、前記『新古今和歌集』撰集(せんしゅう)に際し、院自ら撰者らとともに撰集の作業に加わり、序・詞書(ことばがき)も院の立場で記し、勅撰集中もっとも複雑長期にわたる成立の歴史を有するものとなる。院は都でも隠岐(おき)でも歌合(うたあわせ)を催し(老幼五十首歌合、千五百番歌合、元久詩歌合(げんきゅうしいかあわせ)、遠島(えんとう)御歌合、後鳥羽院御自歌合など)、都での華やかな新古今歌風に対し、隠岐では「軒は荒れて誰(たれ)かみなせの宿の月過ぎにしままの色やさびしき」などのように、懐旧の念による切実な望郷の心情のみられる歌が多い。家集に『後鳥羽院御集(ぎょしゅう)』『遠島御百首』、秀歌撰に『時代不同歌合』がある。歌学書としては『後鳥羽院御口伝(おんくでん)』があり、藤原定家との和歌観の相違を知ることができる。日記には『後鳥羽院宸記(しんき)』がある。[後藤重郎]
『保田与重郎著『後鳥羽院』(1939・思潮社) ▽小島吉雄著『新古今和歌集の研究 続篇』(1946・新日本図書) ▽樋口芳麻呂著「後鳥羽院」(『日本歌人講座 中世の歌人』所収・1961・弘文堂/増補版・1968・弘文堂新社) ▽樋口芳麻呂著『後鳥羽院』(1985・集英社) ▽永原慶二編『人物・日本の歴史 第4巻』(1966・読売新聞社) ▽京都市編『京都の歴史 第2巻』(1971・学芸書林) ▽丸谷才一著『日本詩人選10 後鳥羽院』(1973・筑摩書房) ▽西下経一・実方清編『増補国語国文学研究史大成7 古今集 新古今集』(1976・三省堂) ▽久保田淳監修『和歌文学大系24 後鳥羽院御集』(1997・明治書院)』

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367日誕生日大事典

後鳥羽天皇 (ごとばてんのう)
生年月日:1180年7月14日
鎌倉時代前期の第82代の天皇
1239年没

出典:日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」
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精選版 日本国語大辞典

ごとば‐てんのう ‥テンワウ【後鳥羽天皇】
第八二代天皇。高倉天皇の第四皇子。母は七条院殖子。名は尊成(たかなり)。寿永二年(一一八三)践祚(せんそ)。建久九年(一一九八)譲位後、院政を行なう。親幕派の九条兼実を退けて、土御門通親を用いるなど朝廷の威信回復に努め、承久三年(一二二一)北条義時追討の院宣を下したが失敗(承久の乱)。隠岐に流され、その地で没する。和歌、管弦に秀で、和歌所を再興し、藤原定家らに「新古今和歌集」を撰集させた。歌集「後鳥羽院御集」「遠島御百首」、歌学書「後鳥羽院御口伝」と日記「後鳥羽院宸記」がある。諡号ははじめ顕徳院、のち後鳥羽院と改称。隠岐院。法名金剛理、良然。治承四~延応元年(一一八〇‐一二三九

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旺文社日本史事典 三訂版

後鳥羽天皇
ごとばてんのう
1180〜1239
鎌倉初期の天皇(在位1183〜98)
高倉天皇の第4皇子。安徳天皇を擁した平氏が西走ののち,祖父後白河法皇の院政のもとで即位。法皇没後親政,1198年から院政を行う。この間土御門通親 (つちみかどみちちか) を用い親幕勢力を排除し,西面の武士を設置して公家勢力の伸張につとめた。1221年北条義時追討の院宣を発したが幕府軍に完敗し(承久の乱),隠岐に流され,その地で没した。また歌人としてもすぐれ『新古今和歌集』を勅撰した。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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