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得宗【とくそう】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

得宗
とくそう
とも書く。鎌倉幕府執権北条家督 (当主) となった者をいう。またその所領得宗領,家来を得宗被官または御内人 (みうちびと) と称した。承久の乱に勝ち,北条氏専制を確立した2代執権北条義時の法号を,徳宗といったのに始る言葉。特に貞時以後は,執権としてよりも得宗として幕政を専断し,常に数ヵ国の守護を兼ね,相模,武蔵の両国を中心に全国に散在した得宗領を基礎に強大な勢力を誇った。 (→執権政治 )  

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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デジタル大辞泉

とく‐そう【得宗/徳宗】
鎌倉幕府の執権北条氏嫡流の当主のこと。北条義時の法名を徳宗といったのにちなむ。鎌倉末期には多くの得宗領と御内人(みうちびと)とよばれる家臣団とを持ち、専制政治を行った。

出典:小学館
監修:松村明
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世界大百科事典 第2版

とくそう【得宗】
鎌倉幕府執権北条氏の家督。徳宗,徳崇とも書く。鎌倉北条氏2代義時の法名に由来し,その嫡流の家督をさすようになり,さかのぼって初代時政のほか,夭折して家督を継がなかった時氏も含めて,いわゆる〈北条九代〉(時政,義時,泰時,時氏,経時,時頼,時宗,貞時,高時)を総称する語になった。初代時政は将軍源頼朝の外舅として一般御家人とは別格地位を与えられていたが,頼朝没後,御家人の列に下り,1203年(建仁3)9月比企能員一族を攻め滅ぼして2代将軍頼家を追放し,政所別当就任,幕政を執権した。

出典:株式会社平凡社
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日本大百科全書(ニッポニカ)

得宗
とくそう
鎌倉幕府の執権(しっけん)北条(ほうじょう)氏嫡流の代々の当主をさす。「徳宗」とも記す。得宗とは本来、北条義時(よしとき)の法名であったが、義時ののち、北条氏嫡流の当主となった泰時(やすとき)―経時(つねとき)―時頼(ときより)―時宗(ときむね)―貞時(さだとき)―高時(たかとき)らの別称としても用いられるに至った。これら北条氏嫡流の当主をさして、「将軍家御後見として、政務を申行(もうしおこない)(略)、昇進に於(おい)ては家督(徳宗)従(じゅ)四位下をもて官途して遂に過分の聞えなし」(『梅松論』上)と称せられたゆえんである。
 執権、連署(れんしょ)、評定衆(ひょうじょうしゅう)など幕府の要職が北条氏一門によって占められると、あらゆる権力は北条氏嫡流の当主、すなわち得宗に集中することとなった。これを得宗専制という。時頼のころからは得宗の私邸で行われる寄合(よりあい)(評定衆の一部ならびに得宗側近の人々の会合)がすべてを決定し、公的な議決機関たる評定会議に優越する事態となり、得宗は執権職を離れたのちも、一門の人をその職につかせて、政治の実権を掌握し続けた。そのため幕府の公的な政治制度は形骸(けいがい)化し、将軍の地位そのものまでもが傀儡(かいらい)と化するに至った。得宗の被官(家臣)は御内人(みうちびと)と称されて、陪臣たるにもかかわらず、一般の御家人(ごけにん)(将軍家の直臣)にも勝る発言力を行使することになった。零落した御家人のなかからは、北条氏の被官となって生計を維持しようとする者も現れた。得宗の側近(内管領(ないかんれい))となり、幕政を壟断(ろうだん)して、人々の謗(そし)りを受けた平頼綱(よりつな)、長崎高資(ながさきたかすけ)らは御内人の代表ともいうべき存在である。
 北条氏一門の所領は全国各地に広がり、そのなかでも、得宗の所領は最大の比重を占めた。これを得宗領という。得宗家の家政機関たる公文所(くもんじょ)は多数の職員を抱えて、全国各地にわたる所領の管理にあたったが、このほかにも得宗方(裁判関係)、御内侍所(さむらいどころ)(軍事関係)などの家政機関があった。各地の所領には得宗被官が派遣されて、地頭(じとう)代、政所(まんどころ)、給主などとなり、年貢の収納をはじめとする管理業務の遂行にあたったが、このような所領管理システムは同時代の公家(くげ)・寺社による荘園(しょうえん)管理のそれときわめて類似したものであった。ところで、全国各地にわたる得宗領の維持、管理のうえで交通路の掌握が不可欠であったことはいうまでもない。そのため鎌倉の和賀江(わがえ)島から瀬戸内・日本海を経て奥州津軽十三湊(とさみなと)にまで至る、主要な関・渡・津・泊が得宗の管理下に置かれた。得宗の家紋(三鱗(みつうろこ))を旗印に関税免許の特権を得て日本海航路を往来した船団の存在も知られている。得宗家の保護を得て各地に教線を伸ばした禅宗(臨済宗)、律宗(西大寺流)などの末寺も、交通路に沿った得宗領の中に設定されることが多かった。[入間田宣夫]
『網野善彦著『日本の歴史10 蒙古襲来』(1974・小学館) ▽奥富敬之著『鎌倉北條氏の基礎的研究』(1980・吉川弘文館)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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旺文社日本史事典 三訂版

得宗
とくそう
北条氏の家督を継いだ嫡流
徳宗ともいう。時政・義時・泰時・時氏・経時・時頼・時宗・貞時・高時の9代をいう。北条義時の法名徳宗に由来するといわれ,時宗の頃から実際に得宗を称し,元寇後に専制的な政治体制を確立した。その権力の基盤となった所領を得宗領と呼び,得宗家の直属家臣を御内人と呼んだ。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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