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徳川慶勝【とくがわ よしかつ】

美術人名辞典

徳川慶勝
幕末・明治大名政治家尾張第十四・十七代藩主。松平義建の子。名は慶恕、月堂と号する。徳川宗睦として、藩政改革に着手し藩力を強化した。また国防に努め、徳川斉昭松平慶永・島津斉彬らと国事を議した。のち従一位に叙せられ、また名古屋藩知事となる。明治16年(1883)歿、60才。

出典:(株)思文閣

デジタル版 日本人名大辞典+Plus

徳川慶勝 とくがわ-よしかつ
1824-1883 幕末の大名。
文政7年3月15日生まれ。美濃(みの)(岐阜県)高須藩主松平義建(よしたつ)の次男嘉永(かえい)2年宗家の尾張(おわり)名古屋藩主徳川家14代となり,藩政改革を実行。日米修好通商条約調印反対,将軍徳川家定(いえさだ)の継嗣問題でも井伊直弼(なおすけ)と対立し隠居謹慎。のちゆるされ,公武合体運動尽力。明治16年8月1日死去。60歳。初名は義恕(よしくみ),慶恕。

出典:講談社
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版

とくがわよしかつ【徳川慶勝】
1824‐83(文政7‐明治16)
幕末・維新期の大名。尾張藩14代藩主,のち再家督して17代藩主。支藩の美濃高須藩主松平義建(よしたつ)の第2子として江戸に生まれる。初名は義恕(よしくみ),のちに慶恕,慶勝。1849年(嘉永2)に宗家を継いで,藩政改革に実効をあげた。日米通商航海条約の調印をめぐっては鎖国攘夷を唱え,将軍継嗣問題では一橋派にくみし,徳川慶福(よしとみ)(家茂)を推す井伊直弼派と対立した。このため,58年(安政5)隠居謹慎を命ぜられ,家督を弟茂徳(もちなが)に譲った。

出典:株式会社平凡社
Copyright (c) Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo. All rights reserved.

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

徳川慶勝
とくがわよしかつ
[生]文政7(1824).3.15. 美濃
[没]1883.8.1. 東京
幕末の尾張藩主。松平義建の子。初名は慶恕 (よしくみ) 。公武合体運動の中心として幕末に活躍。第1次長州征伐のときは征長総督となったが,第2次の征長には出兵を拒否した。廃藩当時は名古屋藩知事となった。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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日本大百科全書(ニッポニカ)

徳川慶勝
とくがわよしかつ
(1824―1883)
幕末期の尾張(おわり)徳川藩主。公武合体の立場で活躍した。実父は美濃(みの)(岐阜県)高須(たかす)藩主松平義建(よしたつ)。尾張徳川家の養子となり、1849年(嘉永2)封を継ぎ、51年から藩政改革に着手し、人事の刷新、財政整理、禄制(ろくせい)改革などを行い成果をあげた。鎖国攘夷(じょうい)の立場にたち、条約勅許問題では勅許必須(ひっす)論を強硬に主張したので、58年(安政5)幕府は慶勝に退隠を命じ、江戸・戸山(とやま)別邸に幽閉した。62年(文久2)赦免され、その後、朝幕間の斡旋(あっせん)に努めた。64年(元治1)征長総督を命ぜられ、征長の全権が委任され、長州藩の謝罪を受け入れた。67年(慶応3)10月には桑名藩主松平定敬(さだあき)を派して大政奉還を奏上せしめている。王政復古後、議定(ぎじょう)に任ぜられ、70年(明治3)には名古屋藩知事となった。[林 亮勝]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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