●徳川斉昭【とくがわ なりあき】
美術人名辞典
徳川斉昭
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デジタル大辞泉
とくがわ‐なりあき〔トクがは‐〕【徳川斉昭】
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus
徳川斉昭 とくがわ-なりあき
寛政12年3月11日生まれ。徳川治紀(はるとし)の3男。文政12年常陸(ひたち)水戸藩主徳川家9代となる。藤田東湖らの人材を登用し,天保(てんぽう)の改革を実行。ペリー来航の際幕政参与となるが,将軍徳川家定(いえさだ)の継嗣問題,日米修好通商条約の勅許問題などで大老井伊直弼(なおすけ)と対立,安政の大獄で蟄居(ちっきょ)処分をうけた。万延元年8月15日死去。61歳。初名は紀教(のりたか)。号は景山。諡(おくりな)は烈公。
【格言など】鳥などに大金を使うより,貧しい人に分け与えた方が功徳になるものだ
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世界大百科事典 第2版
とくがわなりあき【徳川斉昭】
江戸後期の大名。水戸藩第7代藩主治紀(はるとし)の三男として江戸の水戸藩邸に生まれる。母は外山氏瑛想院。初名は敬三郎,字は子信。景山と号した。諡(おくりな)は烈公。その生涯は波乱に富み,とくに幕末の政界では将軍継嗣問題や日米修好通商条約の締結をめぐって幕閣と対立して,激しい政争渦中の人となった。1829年(文政12)斉脩(なりのぶ)の跡を継いで第9代藩主となるや藩政改革に着手した。これが幕府や諸藩に先駆けた天保改革である。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
徳川斉昭
とくがわなりあき
[没]万延1(1860).8.15. 水戸
江戸時代後期の水戸藩主。治紀の3男。幼名は虎三郎,敬三郎。字は子信。号は景山,潜龍閣。諡は烈公。少年時代に会沢正志斎 (会沢正) などの指導を受け,文政 12 (1829) 年水戸藩主となる。朱子学的,尊攘的行動が多かった。藤田東湖らを登用して藩政の刷新をはかり,藩校弘道館を設立したほか,反射炉を那珂湊に設けて鉄砲を鋳造するなど藩政改革に努力した。しかしこれら斉昭の活動は尊攘的行動とみなされ,幕臣鳥居耀蔵 (ようぞう) らの排撃にあって,弘化1 (44) 年5月隠居謹慎を命じられ一時幽閉された。嘉永2 (49) 年3月幽閉を解かれ幕政に参与してからは将軍継嗣問題で大老井伊直弼と対立し,安政6 (59) 年8月水戸に永蟄居を命じられた。
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日本大百科全書(ニッポニカ)
徳川斉昭
とくがわなりあき
(1800―1860)
幕末の水戸(みと)藩主。治紀(はるとし)の三男。寛政(かんせい)12年3月11日、小石川の江戸藩邸に生まれる。虎三郎、のち敬三郎と称す。初名紀教(としのり)。字(あざな)は子信。号は景山、潜龍閣。諡(おくりな)を烈公という。会沢安(あいざわやすし)(正志斎(せいしさい))らに学び賢才の誉れ高く、1829年(文政12)長兄の藩主斉脩(なりのぶ)死後、藤田東湖(とうこ)ら改革派に推されて第9代藩主となり、斉昭と改めた。人事を刷新して藤田や会沢らを抜擢(ばってき)し、海防、民政、教育を重視した天保(てんぽう)の改革を行った。銃砲鋳造を行い、蝦夷地(えぞち)開拓を計画して船を派遣し、天保検地や諸国との国産交易を実施し、また藩士教育に弘道館(こうどうかん)を建て、領内の廃仏棄釈によって思想統制を強化するなどした。しかし、これら水戸藩独自の改革は幕府の嫌疑を招くところとなり、また藩内保守派(結城寅寿(ゆうきとらじゅ)ら)の策動もあって44年(弘化1)5月幕府から隠居・謹慎を命ぜられ、長男慶篤(よしあつ)に家督を譲った。その後、武田耕雲斎(こううんさい)ら改革派による幕府への復職嘆願があり、また外国艦船の来航という「外患」の下で、老中阿部正弘(あべまさひろ)らの幕閣が有力諸藩との協調策に転じたこともあって、49年(嘉永2)藩政への参与を許された。
ついで1853年ペリー来航に際しては海防問題について幕政参与を命じられたが、その対外強硬論は幕閣のいれるところとならず、57年(安政4)阿部の死により、参与を免ぜられた。58年政敵井伊直弼(いいなおすけ)が大老となり、日米修好通商条約が無勅許のまま調印され、またかねてより争われていた将軍継嗣(けいし)問題では斉昭の実子一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を抑えて紀州藩主徳川慶福(よしとみ)が後継者に決定された。無断調印を怒った斉昭は、実子慶喜、尾張(おわり)藩主徳川慶勝(よしかつ)らとともに不時登城して違勅を責めたがかえって謹慎を命じられ、翌年、安政(あんせい)の大獄により国許(くにもと)永蟄居(えいちっきょ)に処された。万延(まんえん)元年8月15日、水戸で病没。
[井上勝生]
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367日誕生日大事典
徳川斉昭 (とくがわなりあき)
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精選版 日本国語大辞典
とくがわ‐なりあき【徳川斉昭】
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旺文社日本史事典 三訂版
徳川斉昭
とくがわなりあき
江戸末期の水戸藩主
15代将軍慶喜 (よしのぶ) の父。おくり名は烈公。藤田東湖ら改革派の人材を登用し,藩校弘道館の設立,反射炉築造,銃砲鋳造,兵制改革など藩政改革を実施したが,藩内の保守派の反対で十分な成果はあげられなかった。尊王攘夷論者で幕府に忌まれ謹慎を命じられたが,のち許され,ペリー来航時に幕政参与となった。条約勅許問題・将軍継嗣問題で大老井伊直弼 (なおすけ) と対立し,安政の大獄で永蟄居を命じられ,1860年病死した。
出典:旺文社日本史事典 三訂版
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