●忍坂大中姫【おしさかのおおなかつひめ】
デジタル版 日本人名大辞典+Plus
忍坂大中姫 おしさかのおおなかつひめ
応神天皇の孫。稚野毛二派(わかぬけふたまたの)皇子の王女。反正(はんぜい)天皇没後,雄朝津間稚子宿禰(おあさづまわくごのすくね)皇子(允恭天皇)が病身のため即位を辞退した際,群臣の意見をまとめ,熱心にすすめて皇位につかせたという。安康天皇,雄略天皇らを生んだ。「古事記」では忍坂之大中津比売命。
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世界大百科事典 第2版
おしさかのおおなかつひめ【忍坂大中姫】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
忍坂大中姫
おしさかのおおなかつひめ
「記紀」に伝承される允恭天皇(いんぎょうてんのう)の皇后。父は応神天皇の子、稚野毛二派(わかのけふたまた)皇子(『古事記』は若沼毛二俣王、『上宮記』は若野毛二俣王)。母は百師木伊呂弁(ももしきいろべ)、別名弟日売真若比売(おとひめまわかひめ)命。『古事記』は忍坂之大中津比売命にもつくる。安康天皇・雄略天皇など五男四女を生む。反正天皇没後、夫の雄朝津間稚子宿禰(おあさづまわくごのすくね)皇子(のちの允恭天皇)が群臣から推挙されたにもかかわらず、病身を理由に即位を固辞したため、妃の忍坂大中姫はみずから手洗水をとって、即位を懇願し、即位を決意させた。立后ののちは、闘鶏国造(つげのくにのみやつこ)を探して、昔の無礼を責め、姓を貶めて稲置(いなぎ)に改姓させた。また、皇后が雄略を出産する日に、允恭は皇后の妹衣通郎姫(そとおしのいらつめ)のもとに通っていたことが発覚した。そのため皇后は恨んで産殿に火をかけて死のうとしたので、允恭は皇后を慰撫したという。名代として刑部(おさかべ)を全国に定めたと伝える。なお、『古事記』には応神天皇と迦具漏比売(かぐろひめ)との子にも、忍坂大中比売がみえる。
[仁藤敦史]
『平野邦雄著『大化前代政治過程の研究』(1985・吉川弘文館)』
出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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