●恐怖政治【きょうふせいじ】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
恐怖政治
きょうふせいじ
La Terreur
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デジタル大辞泉
きょうふ‐せいじ〔‐セイヂ〕【恐怖政治】
2 フランス革命末期、1793年5月のジロンド派追放から1794年7月のテルミドールの反動まで、ロベスピエールらのジャコバン派によって行われた独裁政治。
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世界大百科事典 第2版
きょうふせいじ【恐怖政治 Terreur[フランス]】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
恐怖政治
きょうふせいじ
Terreur フランス語
フランス革命期における、1793年6月から94年7月までの革命的テロリズムによる政治。このテロリズムは、反革命容疑者から国民と革命とを防衛することを本来の目的とし、92年9月のいわゆる「九月虐殺」で初めて日程に上った。山岳派(モンターニュ派)の権力掌握ののちロベスピエールがその制度化を志し、93年9月に反革命容疑者法として整備され、王妃マリ・アントアネットやジロンド派の処刑に役だった。その後、逮捕者の急増に対処しようとして、94年6月のプレリアール(草月)22日法が制定され、以後7月のテルミドールの反動まで恐怖が吹き荒れ、パリでは6週間に1376人がギロチンにかけられた。恐怖政治の全期間を通してみれば、50万の収監者のうち3万5000から4万人が死刑に処され(うち1万から1万2000人は裁判なしの処刑)、獄中での死亡は数千人であった。
恐怖政治の機関は、パリでは公安委員会、革命裁判所、地方では派遣議員、監視委員会であったが、恐怖政治の激化は、独裁の基盤である民衆の活力をも減退させ、反動の一因となった。
[樋口謹一]
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精選版 日本国語大辞典
きょうふ‐せいじ ‥セイヂ【恐怖政治】
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旺文社世界史事典 三訂版
恐怖政治
きょうふせいじ
La Terreur
内外の危機に際して,山岳派はジロンド派を議会から追放し,公安委員会・保安委員会・革命裁判所を設け,特に1794年6月ロベスピエールが公安委員長になると,あらゆる反対派の抑圧と経済統制を強力に実施し,革命裁判所は死刑のみの判決を下した。内部対立とテルミドール反動で,1794年7月に崩壊した。
出典:旺文社世界史事典 三訂版
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