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愛知(県)【あいち】

日本大百科全書(ニッポニカ)

愛知(県)
あいち
本州、太平洋岸のほぼ中央に位置する県。県庁所在地の名古屋市は別に「中京」ともよばれている。
 大化前代には尾張(おわり)、三河、穂(ほ)の3国に分かれていたが、大化改新で尾張、三河の2国となり(三河と穂の2国を合わせて三河1国とした)、1872年(明治5)愛知県が誕生した。「あいち」の地名は『万葉集』巻3の高市連黒人(たけちのむらじくろひと)の歌「桜田(さくらだ)へ鶴(たづ)鳴き渡る年魚市潟(あゆちがた)潮干(ひ)にけらし鶴鳴き渡る」の年魚市潟に由来し、明治初年、名古屋県の県庁のあった愛知郡から県名にもなった。名古屋市は、尾張藩の城下町で、現在でも、日本を代表する経済文化都市の一つである。愛知県の特色をあげると、
(1)東京、大阪の東西二大都市圏の中間にある第3位の大都市圏を有している。
(2)産業では工業が卓越し、1977年(昭和52)以降、製造品出荷額は連続全国首位を占め、とくに自動車産業のメッカともいわれる。機械系技術の先端的な工業県であるとともに、陶磁器、繊維など伝統的軽工業も盛んで、重軽工業が調和ある発展をしている総合的工業県の典型である。
(3)農業上も、用水路など基盤整備が進み、農業経営上も先進県に数えられている。
(4)史上首都としての歴史をもたない県で、第3位の大都市圏としては国宝、重要文化財などの歴史的な文化財の数が少なく、東西文化の谷間といわれている。
(5)東西二大都市圏に比べ、土地、水資源などにゆとりを残した大都市圏で、今後の発展に期待できる大都市空間である。
 2005年(平成17)2月に、常滑(とこなめ)市沖の伊勢湾上に中部国際空港が開港し、また同年の3~9月には瀬戸市を中心に環境をテーマとする日本国際博覧会(愛・地球博)が開催された。
 人口は748万3128人(2015)、全国人口の5.9%を占め、東京都、神奈川県、大阪府に次いで全国第4位。1955年(昭和30)に377万人であった人口は、1975年には592万人と急増したが、以後は緩やかな増加傾向をたどり、1999年には700万人を超えた。平均年齢は44.3歳(2015)と全国に比べると若くなっている。
 2018年4月時点で38市7郡14町2村からなる。[伊藤郷平・伊藤達雄]

自然


地形
県土の面積は5172.48平方キロメートルで全国第27位。地形面積比は山地45%、丘陵15%、台地15%、平野25%で、可住地面積は56%と高い。伊勢(いせ)湾、三河湾を抱えているため、海岸線は長く、延長約594キロメートルもある。濃尾(のうび)、岡崎、豊橋の3平野は肥沃(ひよく)で、先進的農業地帯。美濃(みの)三河高原は人工林地が多い。水系別からは、木曾(きそ)川流域、矢作(やはぎ)川流域、豊川(とよがわ)・天竜川流域に3区分される。
 尾張地域は、広大な濃尾平野が主体で、東部を尾張丘陵が取り囲み、西境を木曾川が流れている。濃尾平野は沖積地で、北部は犬山扇状地、南部は三角州地帯、中間は自然堤防地帯で、同じ平坦(へいたん)地ながら地域差がある。犬山扇状地は全国最大級の扇状地、三角州地帯は全国最大のゼロメートル地帯である。尾張丘陵は標高200メートル内外で、第三紀層からなり知多半島(ちたはんとう)へと続くが、北端部は秩父中・古生層の山地で、木曾川とともに日本ラインの景勝地をつくる。丘陵南部の瀬戸地区は瀬戸層群で陶土層を含み窯業発展の基盤ともなっている。名古屋市の台地面は5段に分かれ、東部から西部へと低下し、最上段は八事面(やごとめん)で、覚王山(かくおうざん)面、熱田(あつた)面、大曾根(おおぞね)面、鳥居松(とりいまつ)面へと低くなり沖積低地へと続く。名古屋城下町は熱田面に、名古屋城は台地北端の崖(がけ)上に位置する。
 矢作川流域は、左岸に美濃三河高原が迫っているが、右岸は段丘で三好(みよし)面、挙母(ころも)面、碧海(へきかい)面からなり、トヨタ自動車の本社は挙母面にある。明治用水は碧海面に開削されたもので、その下部の粘土層を利用して三州瓦(さんしゅうがわら)が生まれた。美濃三河高原は大部分花崗(かこう)岩地で、良質な武節(ぶせつ)花崗岩を素材に、石都岡崎が生まれた。豊川流域は、北部は天竜川水系の地区であるが、日本列島を地質構造上、内帯と外帯に分ける中央構造線が通り、内帯(西側)は花崗岩、外帯(東側)は秩父中・古生層の岩質で、八名(やな)、弓張(ゆみはり)山地をおこし、渥美半島(あつみはんとう)の骨格を構成している。豊川の段丘は3段に分けられ、豊橋市の高師原(たかしはら)、豊川市街などは中位面に立地している。鳳来寺(ほうらいじ)山(695メートル)は、火山岩から成る山塊で湯谷(ゆや)温泉があり、茶臼(ちゃうす)山(1416メートル)の山頂部にも玄武岩(火山岩)がある。美濃三河高原は隆起準平原で山稜(さんりょう)は緩やかな波浪状をしている。標高1000メートルを超える山岳は13あるが、大部分は低い高原状山地で、御油(ごゆ)断層谷(岡崎―豊川を結ぶ谷)を境に以北は花崗岩、以南は領家片麻(りょうけへんま)岩である。
 県内の自然公園には、海の公園の三河湾国定公園、北部は高原景観を呈する愛知高原国定公園のほか、岐阜県にまたがる渓谷美の飛騨木曾川国定公園(ひだきそがわこくていこうえん)、静岡、長野県にまたがる河川美、山岳美、旧跡をもつ天竜奥三河国定公園がある。また、県立自然公園には、渥美半島、南知多、石巻山多米(いしまきやまため)、桜淵(さくらぶち)、段戸(だんと)高原、振草(ふりくさ)渓谷、本宮(ほんぐう)山の七つがあり、それぞれ異なった自然景観を呈し、観光地となっている。[伊藤郷平・伊藤達雄]
気候
ほぼ全体が東日本型気候区の南東端に位置し、冬季は快晴日数が多く、降雪も多くはなく、一般に気候温和で住みよいが、「伊吹おろし(いぶきおろし)」とよばれる冬の季節風は肌にしみ、寒気を感ずる。美濃三河高原の夏季は爽涼(そうりょう)で、学生村などに好適である。平野部は年降水量1500ミリメートル前後で、美濃三河高原に比べると、1000ミリメートル程度少なく、また、渥美、知多両半島の先端部には南海型気候区の特色がみられ、無霜期間250日以上、ウバメガシなど暖地性植物が繁茂する。名古屋市には大都市に共通の都市気候がみられる。[伊藤郷平・伊藤達雄]

歴史


先史・古代
豊橋市の牛川(うしかわ)町で発見された、いわゆる牛川人骨(十数万年前)は別として、愛知県下に人間が住み着いたのは、おそらく1万年前前後といわれる。先土器文化遺跡は、茶臼(ちゃうす)山遺跡などにあるが、石器だけで人骨は出ていない。しかし、縄文期になると遺跡だけでも730か所以上を数え、吉胡(よしご)貝塚(田原市)からは330体を超える人骨が発見され、狩猟漁労をもって集落生活を営んでいたことがわかる。瓜郷(うりごう)遺跡(豊橋市)は弥生(やよい)中期の農耕集落であり、弥生前期の東進限界は貝殻山貝塚(清須(きよす)市)近辺であったと推定されている。なお貝殻山貝塚資料館には、男性人骨2体、出土品、復原竪穴住居が展示されている。古墳時代になると、巨大な断夫(だんぷ)山古墳(名古屋市熱田区)は、国造尾張(くにのみやつこおわり)氏のものといわれ、尾張氏の女(むすめ)が安閑(あんかん)、宣化(せんか)天皇の生母でもあり、大和政権とは深い関係があったと思われる。律令(りつりょう)制下では尾張国、三河国の2国になるが、それ以前は穂(ほ)の国を加えて3国に分かれていた。尾張国、三河国はいずれも8郡あり、尾張8郡の一つに愛智(あいち)郡(のち愛知郡)があった。尾張の国府は、稲沢(いなざわ)市の松下または下津(おりづ)で、三河は豊川市の国府(こう)に置かれた。また、近くには総社(そうじゃ)も置かれた。現在、裸祭りで有名な国府宮は尾張国総社であった。[伊藤郷平・伊藤達雄]
中世
荘園(しょうえん)管理の実権が在地土豪の手に移り、武士団の勢力が強まるなかで、鎌倉幕府の成立となった。
 天皇親政を望む後醍醐(ごだいご)天皇は足利高氏(あしかがたかうじ)(尊氏)の協力によって倒幕の目的は達するものの、その期間は短く、ふたたび武家社会の室町(むろまち)時代になるが、ここで三河と足利氏の関係が生まれる。三河国が足利氏の支配に置かれたのは、承久(じょうきゅう)の乱で戦功のあった足利義氏(よしうじ)(1189―1254)が三河国守護に任ぜられてからである。室町幕府を支えた奉公衆には、三河出身者が多数を占め、三管四職(ししき)の要職に起用された者もある。矢作(やはぎ)東宿(岡崎市)は鎌倉街道の宿場としてにぎわい、高氏が「反鎌倉」の決心をしたといわれる。足利氏の館(やかた)もあった。
 応仁(おうにん)の乱後、群雄割拠し、天下は麻の如(ごと)く乱れ、庶民は塗炭の苦しみを味わった。いわゆる戦国時代である。天下を統一したのは織田信長、豊臣秀吉(とよとみひでよし)、徳川家康の3人であるが、偶然とはいえ三英傑とも尾張、三河の出身である。越前(えちぜん)(福井県)織田庄の出身といわれる織田氏は、尾張国守護斯波(しば)氏の被官から守護代(織田常松(じょうしょう))となり、信長は清洲城主となった。信長は桶狭間(おけはざま)の戦いで今川義元(よしもと)を破り、天下統一を目前に、京都・本能寺で殺されるが、後を継いだ秀吉は尾張の出身で、小田原征伐ののちに天下統一を果たし、関白に任ぜられる。家康は岡崎城の生まれで、関ヶ原の戦いで豊臣氏に勝利を収めたのち、江戸幕府を開き、300年の太平の世とした。信長時代は22年(桶狭間の戦いから本能寺の変まで)、秀吉時代は10年(小田原征伐から関ヶ原の戦いまで)、家康は徳川幕府265年の基礎をつくった。[伊藤郷平・伊藤達雄]
近世
家康は江戸に幕府を開くとともに、尾張藩主には、九男義直(よしなお)(1600―1650)を封じて約62万石の大藩とした。熱田台地上に名古屋城を築き、城下町の核にするため「清洲越(ごし)」を断行した。城普請(ぶしん)は西国、北国20の外様(とざま)大名に命じた。築城に用いた人夫は約20万人、木曾(きそ)ヒノキなど約3万8000本、石材9万個といわれる。天守閣は層塔型とし、屋根には金鯱(きんこ)を置いて目を奪うような華麗な城とした。城下町は碁盤割りとし、清洲越によって武士、町人、社寺を移転させた。名古屋遷府令が発せられてからわずか1年2か月という超スピードであった。木曾川左岸の御囲堤(おかこいづつみ)も2か年で完成させている。また、中島郡大須(おおす)荘(長岡荘大須郷とも。現岐阜県羽島市)から観音を移して繁華街の核とした。また、学問好きな義直は、家康から譲り受けた駿河御譲本(するがおゆずりぼん)といわれる書籍約3000点を中心に、尾張家文庫(蓬左(ほうさ)文庫)を城内につくった。「芸どころ」名古屋といわれ、商都の基礎をつくったのは7代藩主宗春(むねはる)である。宗春ははで好みで幕府(吉宗(よしむね))の倹約令に背いて遊廓(ゆうかく)や芝居の常設小屋をつくり、自らも楽しんだ。藩校明倫堂(めいりんどう)を創設し学問奨励をしたのは、9代宗睦(むねちか)で、熱田新田もつくっている。名古屋城下町が商都として整備されるにつれて人口も増え、1684年(貞享1)には家数5986軒、町人の数5万4000人となり、明治維新直後には武士の数3万人、全体では8~9万人の町になった。一方、三河は尾張の親藩一円支配に対して、まったく逆の小藩分立、藩主交代も多かった。江戸時代を通算すると、19藩52氏にも上っている。5万石以上は岡崎藩、西尾藩、吉田藩の3藩で、ほかはすべて1~2万石の小藩で、藩主には譜代(ふだい)が封ぜられた。そして三河の諸藩主は幕府の要職につく者が多かった。領地錯綜(さくそう)も甚だしく、大名領61%、旗本領12%、飛地領8%、寺社領3%(1642)などという状態であった。また、三河の核心都市は、家康生誕の地でもあり、駿府(すんぷ)に次ぐ繁盛といわれた宿場町岡崎であった。[伊藤郷平・伊藤達雄]
近代・現代
明治維新は近代日本の発足であった。1868年(慶応4)7月、江戸を東京と改め、9月慶応(けいおう)を明治と改元、一世一元の制をたてた。廃藩置県が1871年(明治4)に行われ、尾張は、名古屋、犬山の2県となり、同年11月には犬山県を廃して名古屋県に一本化し、1872年4月には名古屋県を愛知県と改めた。また、三河では10藩(吉田藩は豊橋藩と改称)が10県に分かれていたが、名古屋県の知多郡を含めて額田(ぬかた)県とし、県庁を岡崎城内に置いた。1872年11月27日には、額田県を廃して愛知県に合併した。ここに初めて尾張、三河を一体とする新しい愛知県が誕生したのである。この日は、この年採用された太陽暦によると1873年1月1日にあたる。
 ついで1878年郡区町村編制法によって、名古屋区(人口11万5000)が行政区となり、区長が置かれた。名古屋は以後都市化が進み、近代産業の発展とともに人口も増え、1889年には市制施行、当時の人口は15万7000であった。郡制によって県下は18郡2071町村となり郡長が置かれ、郡役所、郡会もある地方行政が行われたが、1923年(大正12)郡制が廃止され、3年後には郡長、郡役所も廃され郡名だけが残った。第二次世界大戦後は7の県民事務所などが、県行政の出先機関として事務の一部を取り扱っている。町村の整備も進み、明治初年から第二次世界大戦終戦までに数回の合併が行われている。大合併の行われた1906年(明治39)には、2609町村が228町村となり、豊橋町が市制を敷いて県下2市となるが、大正時代には岡崎町、一宮町も市制を施行し県下4市となった。町村合併は行財政の合理化と、激しい都市化に対応して行ったものである。
 第二次世界大戦後は、名古屋市をはじめ、戦災諸都市の復興と平和産業を中心に工業の発展が目覚ましく、都市の人口は急激に伸びた。とくに朝鮮戦争から経済の高度成長期にかけての増加が激しかった。1953年(昭和28)以来大規模な町村合併が行われ、その結果13市204町村は1956年には21市90町村となり、さらに2012年(平成24)4月現在のような38市16町村となった。
 近代・現代は、行政上の近代化だけではない。産業、交通の近代化、文化教育施設の集積も目覚ましく、産業では農業、伝統工業の近代化、重化学工業の発達、交通上は鉄道・道路・港湾の整備が進み、また名古屋の市電も、1898年京都に次いで全国2番目に敷設された(1974年廃止)。第二次世界大戦の末期には、名古屋市と県下各都市がアメリカ空軍の空襲にさらされ、戦災都市となったが、その最大の理由は名古屋市および周辺地域が航空機生産の中心であったことである。戦後は都市計画も近代都市への構造改革を目ざして、広く整然とした街路計画、平和公園(墓地を統合した公園)の建設など思いきった計画で全国の戦災復興モデル都市になり、名古屋市は人口226万(2010)の大都市にまで発展した。この間、1959年には伊勢湾台風(いせわんたいふう)による壊滅的な災害を経験した。
 尾張、三河の平野部では、早くから農業基盤整備がなされ、とくに農業用水では明治用水(1880)が、戦後も愛知用水、豊川用水などが開通した。戦後は工業では自動車工業のメッカとなり、農業では先進的な施設園芸県として知られている。三河山間部は、明治初年から「三河林業」の名で先進的林業地となったが、戦後はエネルギー革命、外材輸入、平野部の工業化の影響を受けて過疎化が進んでいる。
 愛知県は日本の近代化の過程で、全国のモデルとして、行政、産業、交通、文化などの振興を進め、中京圏の中核、中部圏の中枢地域としての役割を果たしてきた県であるといえる。[伊藤郷平・伊藤達雄]

産業

産業の特色は、東京、大阪とは異なり、農業、工業、商業の三者が共生社会を形成していることである。自動車産業では全国首位にありながら、依然として農業県としても上位を占め、名古屋を中心として商業も盛んである。[伊藤郷平・伊藤達雄]
農業
2003年(平成15)現在、耕地の県土に占める割合(耕地率)は16.3%(東京都3.9%)、耕地面積8万4100ヘクタールは、東京都の約10倍、大阪府の約6倍で、豊かな生産緑地を保有している。しかも生産性は高く、施設園芸や畜産(大規模、集団化)では全国の指導的地位にあり、野菜、花卉(かき)、畜産などの生産額では、いずれも全国首位または屈指の地位を占め、農業算出額では全国第5位にある。野菜は江戸時代から野菜王国といわれ、2002年現在で1万9300ヘクタールの作付面積、農業総生産額の22%を占め、キャベツ、ハクサイ、ダイコン(守口(もりぐち)ダイコンなど)、スイカ、また温室トマト、メロンの特産地として知られ、キャベツ、花卉の生産では全国首位。畜産では明治以来養鶏王国といわれ、2004年時点でも採卵鶏の飼養羽数で第4位の座にある。米は作付面積3万4000ヘクタール、都市化による兼業農家(83%。2000)化の進むなかで、先駆的な新しい経営組織もみられる。茶は、全国生産の過半を占める碾茶(てんちゃ)(西尾市)の特産地。養蚕は昭和初期までは長野県に次ぐ養蚕県であったが、衰退した。[伊藤郷平・伊藤達雄]
林業
県総面積の43%を占める林地は、明治初年からスギ、ヒノキの人工林化が進み、人工造林率64%は全国第4位。とくに三河林業として知られていたが、戦後のエネルギー革命と外材輸入で不振となり、さらに過疎化による林業労働力の不足に悩まされている。[伊藤郷平・伊藤達雄]
水産業
三河湾、伊勢湾などの内海と外海を漁場とする海面漁業、内湾の養殖漁業および内水面養殖が主で、河川はアユ中心の観光的性格が強くなっている。2000年(平成12)の漁業生産量は10万4500トンで全国20位であるが、内面養殖業は9400トンで全国1位である。養殖業のうちでも、のり類(全国8位)、ウナギ(全国2位)、アユ(全国5位)などが盛んとなっている。漁港は県内33港中、水揚げ量の多いのが、南知多の師崎(もろざき)、豊浜(とよはま)、篠島(しのじま)の3港と三河湾の一色(いっしき)、形原の2港である。また、加工品では豊橋市のちくわ、西尾市一色町地区のエビ煎餅(せんべい)などが有名。[伊藤郷平・伊藤達雄]
工業
工業出荷額は1976年以来連続して全国第1位。重化学工業が70%という近代的工業県ではあるが、在来産業の軽工業も、意欲的な技術革新によって、根強く生き続け総合型工業県となっているのが特色である。繊維、窯業、食料品、木工業などの全国的特産地で、かつ先進地でもある。地域分化も鮮明で西三河は輸送機器、尾西(びさい)地域は毛織業、瀬戸市は窯業、東三河は食料品、繊維というように地域による特色化が著しい。また、名古屋は城下町から近代的大都市となっただけに、伝統工業と近代工業とが併存し繁栄している総合工業都市で、商業的機能とともに中京経済圏の中核都市としての地位を確立している。
 新しく造成された名古屋港周辺、名古屋港南部(東海市など)、衣浦(きぬうら)(半田市、碧南(へきなん)市など)、三河港などの四大臨海工業地域には、各種の重化学工業の大工場が集中し、内陸工業地域とともに工業県愛知の一大支柱となっている。三河港築港と、臨海工業用地の造成とは一体的事業として1962年(昭和37)に始まり、2年後には重要港湾に昇格し、工業用地面積約3700万平方メートルには、トヨタ自動車ほか多数の企業が進出している。とくに名古屋南部臨海工業地帯には従来、まったくなかった鉄鋼コンビナートが東海製鉄(現、新日鉄住金)名古屋製鉄所を中心に造成され(1964)、中京圏の工業構成と体質改善に寄与している。
 在来産業としての繊維、食料品、窯業、木工業は、すべて軽工業であるが、長い歴史をもち、風土に適合した産業だけに根強いものがあり、絶えず技術革新と経営の近代化に努めている点は、見逃すわけにはいかない。重化学工業との相対的比重は、低下してはいるが、各業種とも全国的に首位、または上位にある点は、前述の農業作目の場合と同じである。繊維工業製品、陶磁器、木工品などは首位を、食料品は県内では輸送機器、一般機器、電気機器、鉄鋼業に次いで第5位を占め、菓子、製パンは全国でも第1~2位にある。技術、経営の近代化については、窯業では燃料革命、製品の多様化が行われ、繊維業では機械化、動力化が、製品でも綿織から綿毛交織、さらに毛織業(尾西地区)へ、木工業では合板工業、多種製品の開発がみられ、仏壇は技術が優れ伝統工芸品に指定されている。
 近代工業は名古屋から始まり、まず紡績工場(1885)、熱田兵器製造所(あつたへいきせいぞうしょ)(1904)ができ、日露戦争に向けて盛んに製造されたが、第一次世界大戦中には外国からの注文もあって、兵器製造に拍車がかかった。名古屋が昭和10年代には航空機製造の全国的中心地となったのも、その延長線とみることができる。大正初期の化学工業は、硫安製造で化繊、ゴム、医薬などへと進み、機械工業も紡織機から工作機械へと移るが、現代の花形産業の輸送機器工業とは相互に深いかかわりをもっている。こうした沿革のなかで、軽工業に加えて重化学工業発展への転期となったのは、高度経済成長期の初期1961年で、1978年には重化学工業が70%にもなり、その主軸となっているのが自動車工業である。[伊藤郷平・伊藤達雄]
商業
商業統計(2002)によると、愛知県の商業活動は卸売、小売業ともに商店数・従業者数・年間販売額において東京都、大阪府に次いで全国第3位にある。卸売業と小売業を比べると、商店数では小売71%、卸売29%であるが、年間販売額では小売19.4%、卸売80.6%と、卸売業が圧倒的比率を占めている。業種別では県の工業構造を反映して一般機械器具・建築材料・電気機械器具などが半数以上を占める。長年漸増傾向にあったが、1991年を境に商店数・従業者数・販売額ともに減少に転じている。
 小売業は県民生活に直結するサービス業で、県下では6万6000の店舗に44万7000人が従業し、8兆0599億円を売り上げている。しかし1994年以降、大規模小売店舗法の規制緩和によって名古屋都心部では百貨店の規模拡大、郊外ではショッピングセンターの新規開店が進み、その影響で地方都市商店街では空き店舗の発生など衰退傾向が目だち、またコンビニエンス・ストアが売上高を1994年の2296億円から2002年の3731億円と62.5%も増加するなど、商業地図の塗りかえが進んでいる。
 愛知県商業における名古屋市の地位はずばぬけて大きく、商店数の42.0%、従業者数の47.4%、年間販売額の70.0%を占め、県下ばかりでなく岐阜、三重、静岡県西部を商圏とする中枢都市として重要な役割を果たしている。[伊藤郷平・伊藤達雄]
交通
本土の中央に位置し、東海道・山陽新幹線ののぞみ号で東京へ1時間35分前後、大阪へ約50分、博多(はかた)へ約3時間20分である。名古屋からは、JRは東海道・山陽新幹線、東海道本線を軸に、中央本線、関西本線、高山本線(乗り入れ)が、豊橋からは飯田(いいだ)線が分岐。岡崎から分岐の旧国鉄岡多線は、高蔵寺まで延長されて第三セクター方式の愛知環状鉄道に転換(1988)。県内乗客輸送は名古屋鉄道が独占的で、一部を近畿日本鉄道、JRなどが分担している。
 高速自動車道は、名神・東名高速道路が東京―阪神間に、中央自動車道は長野県に、大阪へは東名阪自動車道が通じ、北陸方面へは東海北陸自動車道、三重方面に伊勢湾岸自動車道が開通した。旧東海道は、国道1号として主要都市を連珠状に結び、長野方面とは153号、19号、151号の3ルートで、北陸とは41号で、三重県方面へは23号で結ばれている。空路は中部国際空港、県営名古屋空港、海運は名古屋港が主軸になって活動している。名古屋市内の交通は、路面電車からバス、地下鉄へと主役が移ったが、三大都市圏のなかではマイカー依存率の高いのが特色である。[伊藤郷平・伊藤達雄]

社会・文化


教育・文化
江戸中期以降、各藩は競って藩校をつくり、学問を奨励した。吉田藩は時習館(じしゅうかん)(1752)、尾張(おわり)藩は明倫堂(めいりんどう)(1783)を創設。明倫堂の督学(校長)には知多郡出身の儒者細井平洲(へいしゅう)(1728―1801)が招かれた。挙母(ころも)藩(崇化館(すうかかん))、西尾藩(修道館)、田原藩(成章(せいしょう)館)、刈谷(かりや)藩(文礼館)、半原(はんばら)藩(学聚(がくしゅう)館)、犬山藩(敬道館)、岡崎藩(允文(いんぶん)館)なども藩校を設け、各藩士の修学に努めた。
 庶民の学習の場は寺子屋で、その始まりは戦国時代からといわれ、江戸中期になると各村にも普及し、幕末には尾張では1836、三河では2149を数え(『愛知県教育史』による)、とくに三河が盛んであった。県下最古の寺子屋は津島の妙延寺で、戦国時代に始まったといわれる。寺子屋以上の上級教育は私塾が担当した。それらは名古屋の勧善(かんぜん)堂、一宮(いちのみや)の有隣舎(ゆうりんしゃ)をはじめ、約40余を数え、優れた門下生を出している。有隣舎は120年の輝かしい歴史をもち、明治の新学制発布後閉校した。
 明治以後、新学制が制定されるまでの短い間は、愛知県が義校(ぎこう)(約400)、額田(ぬかた)県が郷(ごう)学校(約150)をつくり、つなぎとした。小学校教員養成のため、愛知師範学校が1876年(明治9)、岡崎師範が1899年に開校。両校は1949年(昭和24)青年師範学校を包括して新制の愛知学芸大学(1966年愛知教育大学と改称)となり、1970年刈谷市に統合、移転した。旧制高専、大学は東西に比べて遅れ、名古屋帝国大学ができたのも1939年(昭和14)で、旧制八高も県民の熱意でできたが、建設費は異例の県費一部負担で設けられた。現名古屋大学、名古屋工業大学の前身は、県立として発足し、のち国へ移管されたものである。1976年に国立豊橋技術科学大学が設置された。
 2012年(平成24)時点で、県内には、大学51校、短期大学27校、高等学校223校がある。高校卒業者の大学などへの進学率は2010年が60.0%で過去最高である。
 県内の文化・体育施設としては、博物館等75、公民館455、公立図書館82、体育館169、陸上競技場28などである(2001)。名古屋市の中心に1992年に開設された県立愛知芸術文化センターは、日本初の本格的オペラが上演できる2500席の大ホールのほか、中小ホール、美術館、図書館、文化情報センターなどを備えた総合施設であり、瀬戸市に1978年にオープンした県立陶磁資料館は陶器の街にふさわしい。民間の施設では、徳川美術館、蓬左(ほうさ)文庫、明治村、和紙展示館などが知られる。[伊藤郷平・伊藤達雄]
生活文化
名古屋の「きしめん」、尾張の「おうす」、三河の山地地方の「五平餅(ごへいもち)」などは、風土と庶民生活に密着した生活文化であり、地方的特産物といえよう。県民一般の食文化は均一化し、地方色は認められない。かつて顕著であった都市、農村の生活様式の差も、衣食住すべてが都市生活者にあわせた標準化の傾向にある。しかし、都市化したとはいえ勤勉で堅実な県民性は失われていないように思われる。[伊藤郷平・伊藤達雄]
民俗芸能
とくに奥三河は、民俗芸能の宝庫ともいわれ、古い民俗芸能を保持し、伝承している。花祭、田楽(でんがく)なども原型をいまに伝え、さらに発展させている。振草(ふりくさ)川水系の町村には、花祭保存会が17も存在し、散乱、滅失を防ぐために花祭会館(東栄町)もできている。また、農民の豊作祈願行事として生まれた田楽(田峰(だみね)田楽、鳳来寺(ほうらいじ)田楽など)も古式を残し、保存と継承に努める設楽(したら)町、旧鳳来町(新城(しんしろ)市)などの住民も多く、花祭、田楽はともに国の重要無形民俗文化財に指定されている。民俗芸能の保存は、奥三河だけではなく、尾張・三河地方を含めて全県的にいえることである。
 神事芸能としての獅子(しし)舞は、尾張地方に多い。獅子舞は神社の祭礼には欠かせない芸能となり、曲芸的な獅子舞が多いのが特色で、名古屋南部、海部(あま)郡、半田市、豊明(とよあけ)市、西三河の高浜市では男獅子の曲芸的梯子(はしご)獅子が、嫁(よめ)獅子の獅子芝居は、江南市、岡崎(おかざき)市額田(ぬかた)町地区にみられる。棒の手は、西三河、尾張東部に伝承され、猿投(さなげ)神社系統は西三河、竜泉(りゅうせん)寺系統は尾張東部というように地域分化している。
 祝福芸能としての万歳は、本県を代表する芸能といわれる。三河万歳の発祥は西尾市の御殿(ごてん)万歳といわれ、安城(あんじょう)市の別所(べっしょ)万歳も古い。三河生まれの家康が、新春の厄除(やくよ)け招福のため江戸城に招いたといわれる。尾張万歳の発祥は味鋺(あじま)村(名古屋市北区)とされる。現在は知多市の万歳が代表的。特色は門付(かどづけ)万歳で、楽器を用い曲・調・歌もおもしろみがある。三河万歳は現在安城市、西尾市、幸田町に伝えられ、尾張万歳とともに国の重要無形民俗文化財に指定されている。山車からくり(だしからくり)からくりは近世のもので、名古屋市には10余か所、知立(ちりゅう)市には山車文楽、針綱(はりづな)神社(犬山市)の祭礼には13台の山車が出て、からくり人形芝居を演ずる。
 火祭りは、南知多町師崎(もろざき)の左義長(さぎちょう)、瀧山(たきさん)寺鬼祭(岡崎市)が有名で、大小の松明(たいまつ)の火の乱舞は壮観である。
 盆行事には提灯(ちょうちん)がつきもので、精霊(しょうりょう)の依代(よりしろ)の提灯を中心に行事が行われる。綾渡(あやど)(豊田市)の夜念仏、盆踊は国指定無形民俗文化財である。津島神社の天王(てんのう)祭には、車楽(だんじり)船5隻に365の提灯が飾られて壮観、西尾市一色(いっしき)町の諏訪神社の「一色大提灯まつり」は、海魔除(よ)けの篝火(かがりび)神事から転じたものである。仏教の万灯会(まんどうえ)に相当し、古式を守っているのが、新城(しんしろ)市竹広(たけひろ)の「火おんどり」、乗本(のりもと)の万灯である。ともに長篠(ながしの)の戦いのときの武田軍の死者の霊を弔う祭りである。
 豊作祈願の神事行事は、いわゆる奇祭といわれるものが多く、勇壮さや笑いが伴う。裸祭(稲沢市)、てんてこ祭(西尾市)、へのこ祭(小牧市田県(たがた)神社)、石上げ祭(犬山市尾張富士大宮浅間神社)などが典型的で、一宮市真清田(ますみだ)神社の桃花祭も豊作祈願祭である。ただ、熱田(あつた)神宮の酔笑人(えようど)神事は別で、神剣が宮中から移されたのを祝う歓喜笑楽の祭事といわれる。民俗芸能は、自然神への豊作祈願、弔霊のための行事に付随する芸能である。人々の心と生活に根づいた芸能ということができる。[伊藤郷平・伊藤達雄]
文化財
県内の文化財には、国指定404(うち国宝9)、県指定607があり、国指定のなかでは有形文化財が322と多く、ほかは民俗文化財16、史跡・名勝・天然記念物66である(2011)。東京圏、関西圏に比べると国宝などの数は少ないが、庶民生活に密着する民俗文化財は、東京、京都をしのぎ、しかもよく保存、伝承もされている。
 また、戦国時代の三英傑といわれる信長、秀吉、家康の生国でもあって、それらゆかりの史跡、文化財では全国首位を占めている。名古屋市には、名古屋城跡、徳川美術館、大須観音の寶生院(ほうしょういん)、熱田神宮宝物館など異色の四大宝蔵がある。徳川美術館は、大名道具など一万数千点を収納する大規模な私立博物館である。寶生院の「真福寺文庫」は国宝『古事記』(賢瑜(けんゆ)書写)など4点をはじめ、重要文化財20点ほか多くの書籍や寺宝に富み、蓬左文庫とともに有名である。国宝建造物は、犬山城天守、茶室如庵(じょあん)(犬山市)、金蓮(こんれん)寺弥陀(みだ)堂(西尾市)の3件にすぎないが、明治村(犬山市)のような、明治建築の野外博物館や、岡崎市のように家康ゆかりの八つの社寺がすべて重要文化財建造物を所有し、城跡を含めて町ぐるみ野外家康館の観を呈するのも珍しい。古代国府の所在地稲沢市の社寺には、重要文化財の建造物(7件)、仏像(12件)などが集中している。本県の彫刻は仏像が多く、町村の寺院を含めて広く分布するのが特色で、都市偏在型の絵画とは対照的である。工芸品の大半は刀剣類で、その大部分が熱田神宮宝物館に収納されている。陶都瀬戸市には、陶製狛犬(こまいぬ)があり、小長曾(こながそ)陶器窯跡とともに、地場産業に密着した文化財である。
 重要有形民俗文化財としては、瀬戸、常滑(とこなめ)の陶業関係の生産用具、知多市の漁労用具、設楽(したら)町津具(つぐ)地区の山樵(さんしょう)用具および蒲郡(がまごおり)市の秉燭(ひょうそく)(灯火器具の一種)コレクション178点など5件がある。重要無形民俗文化財には、花祭、田楽、津島の車楽舟行事、豊橋の鬼祭など25件、県指定無形民俗文化財は、梯子獅子(はしごじし)など47件。国指定史跡は特別史跡に名古屋城跡、史跡に貝殻山貝塚、瓜郷(うりごう)遺跡、長篠城跡など35件。国指定の天然記念物は26件を数え(2012)、県木のハナノキ自生地(豊根(とよね)村)や、県花のカキツバタ群落(刈谷市)、御油(ごゆ)のマツ並木、鵜(う)ノ山ウ繁殖地(美浜町)は広く知られる。[伊藤郷平・伊藤達雄]
伝説
名古屋市熱田区にある熱田神宮は、悲劇の皇子日本武尊(やまとたけるのみこと)の草薙剣(くさなぎのつるぎ)を祀(まつ)ると伝えるが、ここに唐の玄宗(げんそう)皇帝の寵愛(ちょうあい)を一身に集めた楊貴妃(ようきひ)の伝説があるのは興味深い。中村公園(中村区)付近は、豊臣(とよとみ)秀吉こと日吉丸(ひよしまる)の誕生の地といわれていて、さまざまな伝説がある。日吉丸伝説には、江戸時代の成立とみられるものが多い。東海の雄今川義元(よしもと)が織田信長に敗死した地と伝える伝説地は、2か所ある。一つは桶狭間田楽窪(おけはざまでんがくくぼ)(名古屋市緑区有松町)、他は豊明市栄町である。戦評の松(有松町)に白馬の武将の亡霊が出現したと伝えられる。雄図むなしく消え去った無念さが凝って亡霊となったのであろう。名古屋市内には有名な毛替え地蔵(天白(てんぱく)区天白町)がある。怪盗熊坂長範(くまさかちょうはん)の急場を救った地蔵といわれている。岡崎市は徳川家康の生誕地であるだけにゆかりの伝説が多い。また、世に知られているのは源義経(よしつね)と浄瑠璃姫(じょうるりひめ)の悲恋伝説である。成就院(岡崎市吹矢町)は江戸時代には浄瑠璃姫の旧跡として知られ、誓願寺(岡崎市矢作(やはぎ)町)に2人の木像、名笛などの遺品がある。岡崎市宮地町の糟目犬頭(かすめけんとう)神社は大蛇の危難から主人を救ったという忠犬を祀るという。古い伝説では、カキツバタの名所の八橋(やつはし)(知立市)が有名である。1人の寡婦が、沼沢地で愛児をなくしたことに一念発起して、流木で八つの橋を架したという。八橋の地名は伝説に基づく。渥美(あつみ)半島の鸚鵡(おうむ)石の伝説も古い。娘の怨念(おんねん)が大岩にとどまって音声を反響すると伝えている。豊橋の正林寺(南松山町)に残る千体骨地蔵は、父子対面の悲願をこめて、古戦場の遺骨でつくった花若丸が、とらわれの身の父を慕ってさすらうという、貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)の一例である。設楽(したら)地方は武田、織田両軍が雌雄を決した古戦場だけに、至る所に戦死者や落人(おちゅうど)をめぐる血生臭い伝説が多い。長篠城(新城市)の鳥居強右衛門(とりいすねえもん)の伝説は有名。[武田静澄]
『『愛知県史』全5巻(1935~1940・愛知県) ▽塚本学・新井喜久夫著『愛知県の歴史』(1970・山川出版社) ▽『愛知県昭和史』2巻(1973・愛知県) ▽『愛知百科事典』(1976・中日新聞本社) ▽武田静澄・福田祥男著『愛知の伝説』(1976・角川書店) ▽愛知県郷土史研究会編『愛知県の歴史』(1980・光文書院) ▽森原章編『郷土史事典 愛知県』(1980・晶平社) ▽『日本歴史地名大系23 愛知県の地名』(1981・平凡社) ▽伊藤郷平監修『愛知県風土記』(1981・愛知県教科書特約供給所) ▽愛知県文化財保存振興会編『愛知の史跡と文化財』(1983・泰文堂) ▽『角川日本地名大辞典23 愛知県』(1989・角川書店) ▽愛知県編『愛知県史 上・下』(1990・国書刊行会) ▽愛知県高等学校郷土史研究会編『新版愛知県の歴史散歩 上・下』(1992・山川出版社) ▽浅井得一著『愛知県人と名古屋人 続・人間の地理学』(1995・玉川大学出版部) ▽三鬼清一郎編『愛知県の歴史』(2001・山川出版社) ▽愛知県編『愛知県統計年鑑』各年版(愛知県企画部統計課)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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