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持明院統【じみょういんとう】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

持明院統
じみょういんとう
後深草天皇系の皇統。鎌倉時代,後嵯峨天皇は寛元4 (1246) 年,第1皇子久仁親王に譲位して後深草天皇としたが,皇太弟の恒仁親王を寵愛して,正元1 (59) 年これに皇位を譲らせて亀山天皇とし,その皇子世仁親王を皇太子とした。文永 11 (74) 年,世仁親王が即位して後宇多天皇となり,亀山上皇院政を行うことになったため,これに不満をいだく後深草上皇側は持明院御所としたことから持明院統と称され (→持明院家 ) ,亀山上皇の皇統の大覚寺統対立し,鎌倉,南北朝時代を通して皇位継承をめぐって争った。そこで幕府両統迭立の方針によって両統から交代に皇位につくことが決められた。しかし持明院統の経済的基盤である長講堂領の伝領問題もからんで両統の対立は激化していった。持明院統は鎌倉幕府とも協調的であり,南北朝時代に入っても足利尊氏の支持によって北朝の皇位を継承した。

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デジタル大辞泉

じみょういん‐とう〔ヂミヤウヰン‐〕【持明院統】
鎌倉後期から南北朝時代にかけて、大覚寺統と皇位を争った後深草天皇系統。南北朝時代は北朝として南朝と対立したが、元中9=明徳3年(1392)南朝を合わせ、以後皇位を継いだ。後深草天皇が譲位後、京都の持明院を御所としたのでこの名がある。→大覚寺統

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世界大百科事典 第2版

じみょういんとう【持明院統】
鎌倉時代後半から南北朝時代にかけて皇位継承をめぐって争った二つの皇統のうち,後深草天皇の系統をいい,北朝につながる。後嵯峨法皇の死(1272)後,後深草上皇系と亀山天皇系の間で皇位継承や皇室領荘園領有をめぐる争いおこり,天皇家は大きく二つに分裂した。このうち後深草上皇の子伏見上皇が持明院(現在の京都市上京区安楽小路町にあった)を居所としたことからこの皇統を持明院統とよび,これに対して亀山天皇系が大覚寺統とよばれている。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

持明院統
じみょういんとう

鎌倉中期に分裂対立した二皇統の一つ。持明院は藤原基頼(もとより)が邸内に建てた持仏堂の名で、今日の京都市上京区上立売(かみだちうり)北新町のあたりにあたる。基頼の子通基(みちもと)が持明院家を称したが、その孫女(むすめ)、後高倉院(ごたかくらいん)妃がここに住んだ縁から、後高倉院がここで院政をとり、以来後深草(ごふかくさ)、伏見(ふしみ)、後伏見(ごふしみ)院も譲位後ここに住した。後深草、亀山(かめやま)天皇の間に皇位をめぐって対立を生じ、子孫の間に引き継がれ、皇統が二分したので、史家は前者の皇統を持明院統とよんで、後者の大覚寺(だいかくじ)統と区別している。両統ともに鎌倉幕府や西園寺(さいおんじ)家の支持を得て有利な立場を得ようと競ったが、持明院統は大覚寺統よりも幕府に親しむ傾向が強かった。この争いは後の南北朝分立の因となったが、持明院統はやがて北朝として室町幕府に推戴(すいたい)された。

[多賀宗隼]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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精選版 日本国語大辞典

じみょういん‐とう ヂミャウヰン‥【持明院統】
第八九代後深草天皇の皇統。鎌倉後期・南北朝時代に第九〇代亀山天皇の皇統である大覚寺統との間で皇位継承を争った。建武三年(一三三六)足利尊氏が室町幕府を創立し、持明院統を擁立して北朝と称した。後小松天皇の時、南朝を合わせて現代にまで及んでいる。

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旺文社日本史事典 三訂版

持明院統
じみょういんとう
鎌倉後期・南北朝時代,皇位・所領の継承問題の対立から二分した皇統の一つ
後深草天皇の皇統で京都の持明院を御所としたのでこの名がある。弟の亀山天皇の皇統である大覚寺統と皇位を争った。皇位継承をめぐる両統の対立は鎌倉幕府の対公家政策と結びつき,両統が交互に皇位を継ぐ(両統迭立 (てつりつ) )協定文保の和談)が成立したが履行されず,元弘の変で持明院統の光厳天皇が幕府に擁立され,また足利尊氏に光明天皇が擁立されて北朝となり,大覚寺統の南朝と対立した。1392年後小松天皇のとき,南北朝合体が実現し,以後皇位は持明院統によって継承され現在に至る。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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