●持統天皇【じとうてんのう】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
持統天皇
じとうてんのう
[没]大宝2(702).12.22. 大和
第 41代の天皇,女帝 (在位 690~697) 。名は高天原広野姫尊 (たかまのはらひろぬひめのみこと) ,幼名はう野讃良 (うののさらら) 。天智天皇の第2皇女,母は蘇我遠智娘 (おちのいらつめ) 。斉明3 (657) 年大海人皇子 (→天武天皇 ) の妃となり,皇子に従って吉野に入り,壬申の乱にあたっても皇子と行動をともにした。天武2 (673) 年2月大海人皇子の即位とともに皇后となった。皇居を飛鳥浄御原宮という。朱鳥1 (686) 年天武天皇崩御後朝政をとった。持統3 (689) 年4月皇太子草壁皇子が死亡したため,同4年正月即位し,長庶子高市 (たけち) 皇子を太政大臣とした。同8年 12月藤原宮に遷御し,同 10年に高市皇子が死亡すると,翌年2月草壁皇子の子軽皇子を皇太子として,同8月位を譲り,太上天皇と称した。これは太上天皇号の初めである。『日本書紀』によると,沈着で度量が大きく礼にかない,母親としての徳もあり,仏教に対しても熱心で歌をよくした,とある。陵墓は奈良県高市郡明日香村の檜隈大内陵。
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朝日新聞掲載「キーワード」
持統天皇
(2015-04-16 朝日新聞 朝刊 文化文芸)
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デジタル大辞泉
じとう‐てんのう〔ヂトウテンワウ〕【持統天皇】
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus
持統天皇 じとうてんのう
大化(たいか)元年生まれ。天智(てんじ)天皇の第2皇女。母は蘇我遠智娘(そがの-おちのいらつめ)。天武天皇の皇后。天武の死後,即位せずに政務をとり(称制),4年後に即位。夫の遺業をついで,飛鳥浄御原令(きよみはらりょう)の実施徹底をはかり,藤原京を造営してあたらしい都とした。大宝(たいほう)2年12月22日死去。58歳。墓所は檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)(奈良県明日香村),天武天皇と合葬。諱(いみな)は鸕野讃良(うののさらら)。別名は高天原広野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと),大倭根子天之広野日女尊(おおやまとねこあめのひろのひめのみこと),倭根子天皇。
【格言など】春過ぎて夏来にけらし白妙(しろたへ)の衣干すてふ天(あま)の香具山(かぐやま)(「小倉百人一首」)
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世界大百科事典 第2版
じとうてんのう【持統天皇】
第41代にかぞえられる天皇。称制686‐689年,在位690‐697年。鸕(菟)野讃良(沙羅々)(うののさらら)皇女。諡(おくりな)は高天原広野姫(たかまのはらひろのひめ)または大倭根子天之広野日女(やまとねこあまのひろのひめ)という。天智天皇の皇女,母は蘇我石川麻呂の女遠智娘。大化改新の開始の年に生まれ,657年(斉明3)13歳で父の弟大海人(おおあま)皇子と結婚する。国内では父の中大兄皇子(のち天智天皇)を中心に律令体制の成立が急がれていたが,国外では強大な唐の勢力の圧迫により,朝鮮半島の情勢が緊迫していた。
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日本大百科全書(ニッポニカ)
持統天皇
じとうてんのう
(645―702)
白鳳(はくほう)時代の天皇。第41代に数えられる(称制686~689、在位690~697)。鸕野讃良(うののさらら)皇女といい、諡(おくりな)は高天原広野姫(たかまのはらひろのひめ)または大倭根子天之広野日女(やまとねこあまのひろのひめ)という。父は天智(てんじ)天皇、母は蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ)の女(むすめ)遠智娘(おちのいらつめ)。父の弟大海人(おおあま)皇子の妃となる。大海人は天智天皇の皇太子の地位についたが、天智の晩年に意思の疎通を欠き、671年(天智天皇10)朝廷を去って吉野山に入り、持統もこれに従った。天智の没後、持統の異母弟の大友皇子が天智の後を継いだが、大海人は672年壬申(じんしん)の乱を起こし、大友(弘文(こうぶん)天皇)を倒して皇位につき、天武(てんむ)天皇となり、飛鳥浄御原(あすかきよみはら)に都を定め持統を皇后とした。持統は天武の政治を補佐し、686年の天武の死後は皇太子草壁(くさかべ)皇子を助け、689年(持統天皇3)に草壁が没したのち、飛鳥浄御原令(りょう)を施行、ついで690年正式に即位し、諸制度を整備して、律令国家の確立に努め、藤原京を建設して694年に遷都した。697年に皇位を孫の文武(もんむ)天皇に譲るが、太上(だいじょう)天皇として文武の政治を助け、大宝律令の成った701年(大宝1)の翌年に没し、天武の檜隈大内(ひのくまのおおうち)陵(奈良県明日香(あすか)村に治定)に合葬された。『万葉集』に歌6首がある。
[直木孝次郎]
『直木孝次郎著『持統天皇』(1960・吉川弘文館)』
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精選版 日本国語大辞典
じとう‐てんのう ヂトウテンワウ【持統天皇】
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歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典
持統天皇
(通称)
じとうてんのう
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旺文社日本史事典 三訂版
持統天皇
じとうてんのう
7世紀後半の女帝(在位686〜697)
天智天皇の皇女で,天武天皇の皇后。天武天皇死後,即位しないで執政,皇太子草壁 (くさかべ) 皇子が没するとみずから即位。在位中,飛鳥浄御原 (あすかきよみはら) 令の施行(689),庚寅年籍の作成(690),藤原京遷都(694)など,律令国家体制の整備につとめた。
出典:旺文社日本史事典 三訂版
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