●揚雄【ようゆう】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
揚雄
ようゆう
Yang Xiong
[没]天鳳5(後18)
中国,前漢末の文学者,哲学者。成都 (四川省) の人。字,子雲。四十余歳で都へ出て,その博学と文才を認められ,成帝,哀帝,平帝に仕えた。王莽 (おうもう) にも仕え,『劇秦美新』の文を草して王莽を賛美したともいわれる。蜀の先輩司馬相如を宗とし,『甘泉賦』『羽猟賦』『反離騒』などの辞賦で,司馬相如,班固,張衡らとともに漢代の賦の代表的作家に数えられるが,晩年には作賦に疑問をいだき,「童子の彫虫篆刻」と称して筆を絶った。『論語』と『易経』を尊重し,それに模して『法言』と『太玄経』を著わし,主として儒家思想に拠って道徳の道を説いた。ほかに都に集った官吏志望者から採集した方言語彙を記した『方言』の著がある。
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デジタル大辞泉
よう‐ゆう〔ヤウ‐〕【揚雄】
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世界大百科事典 第2版
ようゆう【揚雄 Yáng Xióng】
中国,前漢末の思想家,文学者。蜀(四川省成都)の人。楊雄と書かれる場合もある。字は子雲。若いころから口吃で,学問を好み沈思を旨とした。およそ富貴や名声には関心がなく,司馬相如や屈原の賦を好み,みずからもまた賦を作った。屈原の〈離騒〉にいたく感激したが,みずからの不遇を嘆いて自殺した屈原の生き方に反論して,有名な《反離騒》を著した。年41にして初めてその文才を認められた。時に成帝の奢侈(しやし)を風刺した〈甘泉賦(かんせんふ)〉を奏上したところ,帝はこれを珍重したという。
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日本大百科全書(ニッポニカ)
揚雄
ようゆう
(前53―後18)
中国、漢代の儒学者、文人。蜀(しょく)郡成都(せいと)(四川(しせん)省)の人。字(あざな)は子雲(しうん)。前漢、新(しん)、後漢(ごかん)の3王朝に仕えた。学者として高名である。著書としては『易経』に擬した『太玄経(たいげんきょう)』と、『論語』を模した『法言(ほうげん)』が有名である。また司馬相如(しばしょうじょ)の影響を受けて賦(ふ)をよくした。『太玄経』は『易経』の六四卦(か)三八四爻(こう)に倣って八一首(しゅ)七二九賛(さん)とし、新しい占筮(せんぜい)書とした。その根本原理は老子の道の思想より得た玄である。その生成を説くに、一玄が分かれて三方(ほう)となり、三方が九州(しゅう)となり、九州が二七部となり、二七部が八一家(か)となるとする。これを人事にあてて、三方は三公、九州は九卿(けい)、二七部は大夫(たいふ)、八一家は元士にかたどり、一玄を君主としてこれを統(す)べるものと説いた。『法言』は『論語』に倣い、巻1の「学行」から巻10の「孝至(こうし)」に及んで、聖人を尊び、王道を説いた。漢・唐の諸儒は揚雄を高く評価したが、宋(そう)代の程伊川(ていいせん)(程頤(ていい))や朱熹(しゅき)(朱子)が、聖人の書の模作を難じ、性善悪混説を唱え、3朝に仕えたことなどを批判したため、それ以後の儒者も多くこれに倣った。
[安居香山 2016年1月19日]
『鈴木由次郎訳『太玄経』(1972・明徳出版社・中国古典新書)』
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精選版 日本国語大辞典
よう‐ゆう ヤウ‥【揚雄】
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