@niftyトップ

辞書、事典、用語解説などを検索できる無料サービスです。

敵討【かたきうち】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

敵討
かたきうち
「あだうち」ともいい,「仇討」「復讐」などの字をあてる。主人や親兄弟を殺した者を討取って恨みを晴らすこと。古代から行われ,「記紀」にすでに,安康天皇3年,眉輪王が父大草香皇子の殺されたのに対し,安康天皇を弑したという記事がみえる。鎌倉,室町時代に入ると,天慶3 (940) 年平貞盛が平将門を討った事件をはじめとして,源頼朝が長田忠致を滅ぼしたり,日野阿新が父の仇を報いたりしたなど敵討の事例も多い。その最も有名なものは建久4 (1193) 年曾我祐成,時致兄弟が工藤祐経を討った事件で,これは『曾我物語』として著名。江戸時代になると,一般に私闘は厳禁されたが,敵討のみは封建的道徳と武士道観念から,かえって黙認奨励され,幕府諸藩からの特別の許しを得て,世間にも美談として称賛された。この時代,寛永 11 (1634) 年伊賀上野,寛文 12 (72) 年江戸浄瑠璃坂をはじめとして,全部で 104件以上の敵討が知られているが,そのなかでいちばん有名なものは,元禄 15 (1702) 年 12月の赤穂浪士の吉良邸討入り (→赤穂事件 ) である。この頃を境として,敵討は百姓や町人の間にも盛んに行われるようになり,1873年,法の整備に伴い復讐禁止令が出された。 (→女敵討〈めがたきうち〉)

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典 第2版

かたきうち【敵討】
私闘の一形態。
中世
 日本の中世社会においては,生存権をふくめた諸権利を自分(個人ではなく集団)の手で守るために実力を行使し,またこれらの諸権利に対する侵害に対して実力で報復する私闘が広く存在した。ここでは,親族集団を中心とし,主従集団など種々の集団のメンバーの攻撃に対する同じ集団に所属するメンバーの実力的復讐行為をすべて敵討と称していた。このような復讐そのもののありかたは,古くから世界諸民族に共通してみられ,種族保存の本能にもとづくものとされているが,日本の場合,親の敵討が他の復讐と異なった特別の観念にささえられ,他民族にみられるような賠償制を定着させることなく近代にまで継続したところにその特殊性がある。

出典:株式会社平凡社
Copyright (c) Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo. All rights reserved.

日本大百科全書(ニッポニカ)

敵討
かたきうち
「あだうち」ともいい、普通、君父を殺した者を討ち取って怨(うら)みを晴らすことを意味する。まれには母、祖父母、夫、妻、子、兄弟姉妹、伯叔父のため、あるいは師、友人のためにもこれを行った例がある。一種の私刑で、法の権威が確立するまでのいわばやむをえない風習であるので、古くは東西両洋の各地にみられ、現在でも未開社会では行われる場合がある。文明社会でも、暴力団などにそれが行われることは、われわれの見聞するとおりである。しかしわが国では、1873年(明治6)2月法律によって禁止されたので、社会的に公認された敵討はもはや存在しない。それが社会的に公認もしくは賞賛されたのは封建時代、ことに江戸時代で、記録に残る件数だけでも100件を超えるから、実際ははるかにそれより多かったであろう。そのなかでとくに有名になったのは、1702年(元禄15)12月に決行された大石良雄(よしお)以下47人による赤穂浪士(あこうろうし)事件で、この事件を題材にした歌舞伎(かぶき)・浄瑠璃(じょうるり)の脚本だけでも、竹田出雲(いずも)作『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』をはじめ約400本を数え、江戸時代の芝居の正月興行はこの忠臣蔵か曽我物(そがもの)を上演するのを吉例としていた。近年まで、映画や芝居の観客動員が不振になると忠臣蔵をピンチヒッターとして起用すれば景気が持ち直すとされ、忠臣蔵はこの世界のドル箱的存在とみられてきた。
 そのように、忠臣蔵の影響力は封建時代に限られていないが、敵討そのものも封建時代特有のものではなかった。曽我兄弟の敵討は1193年(建久4)富士の裾野(すその)を舞台として行われ、それが『曽我物語』をはじめとする多くの物語、浄瑠璃、謡曲などの題材となった。曽我事件は、赤穂浪士事件が主君のための集団的敵討であったのに対して父のための兄弟2人の敵討であった点が異なっているが、記紀にみえる安康(あんこう)天皇3年に眉輪(まよわ)王が安康天皇を弑(しい)した事件も、眉輪王の父大草皇子を殺したのに対する敵討であった。この事件は5世紀中ごろの話で、わが国における敵討の記録としてはもっとも古い。その後、曽我兄弟の事件があり、1332年(元弘2)ごろ、元弘(げんこう)の変の影響を受けて斬(き)られた日野資朝(すけとも)の子の阿新(くまわか)は、佐渡で父を殺した本間山城入道の次男三郎を斬って島を脱出した。そのいきさつは『太平記』にくわしいが、これも父のための敵討として知られている。
 したがって、敵討が封建時代特有の習俗でなかったことが明らかであるが、これを封建時代の美徳として推賞する風潮がかつてはあった。日本弘道会の開祖泊翁(はくおう)西村茂樹(しげき)は、1891年(明治24)2月の明治会演説で「本邦の三美風」として復讐(ふくしゅう)、自殺、帯刀(たいとう)を取り上げ、そのうちの復讐は俗語の敵討であって、このことは『礼記(らいき)』の「父ノ讐(あだ)ハ與(とも)ニ天ヲ戴(いただ)カズ、兄弟ノ讐ハ兵ニ反セズ、交遊ノ讐ハ国ヲ同ジウセズ」の語より出たに相違ないが、「本邦人民の忠孝に厚くして勇武に長じ、恥を知るの深きよりして之(これ)を実行する者多く、世人も亦(また)之を感称して措(お)かざること」であって、「忠臣孝子の至情にして又(また)天理に協(かな)ふ所の善行」であると評価している。泊翁の意図は「国民の志気を奮興し、国威の拡張を助くべき」風俗としてこれを推賞しているのであって、いうまでもなく、これをそのまま現在に復活しようというのではない。[古川哲史]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

精選版 日本国語大辞典

かたき‐うち【敵討】
〘名〙
① 主君や父、夫などが殺された場合に、臣下や近親の者などが、恨みを晴らすために、その相手を殺すこと。あだうち。
※神道集(1358頃)一〇「権の守は聟の敵討とて、一族相催して打立折節」
② 他人に何かやられたことに対して、仕返しをすること。報復。
※当世書生気質(1885‐86)〈坪内逍遙〉一九「君のブレイン〔脳〕が平癒(よくな)ったと聞いちゃア、此間の復讐(カタキウチ)をしなくちゃアならん」

出典:精選版 日本国語大辞典
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

敵討」の用語解説はコトバンクが提供しています。

敵討の関連情報

他サービスで検索

(C)The Asahi Shimbun Company /VOYAGE MARKETING, Inc. All rights reserved.
No reproduction or republication without written permission.

アット・ニフティトップページへ アット・ニフティ会員に登録

ウェブサイトの利用について | 個人情報保護ポリシー
©NIFTY Corporation