@niftyトップ

辞書、事典、用語解説などを検索できる無料サービスです。

文人画【ぶんじんが】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

文人画
ぶんじんが
職業画家でない文人 (知識人) の制作する絵画。文人を規定し,職業画家に優越することを主張したのは中国,明末の董其昌 (とうきしょう) で,彼は絵画技巧よりその内容の豊かさと高踏を重んじ,気韻に富む作品は「万巻の書を読み,千里の道を行く」文人でなければできないことを強調。同時に唐の王維に始り北宋の董源,米 芾 (べいふつ) ,元末四大家,明の沈周 (しんしゅう) ,文徴明と連なる文人画の系譜を設定した。董其昌のいう文人画の系譜と南宗画の系譜はほぼ一致するため,論理的には矛盾する南宗画 (山水画様式による分類) と文人画 (画家の社会的身分による区別) を同一視し,これに対する北宗画すなわち職業画家の絵および浙派 (せっぱ) を痛撃し,北宗画,浙派衰退の原因をつくった。日本では主として明末蘇州派の文人画遺品が載され,同時に画譜も輸入されて池大雅,与謝蕪村らの南画家を生み,江戸時代中期以降の南画隆盛の要因となった。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉

ぶんじん‐が〔‐グワ〕【文人画】
文人余技的に描いた絵画。多く水墨または淡彩で自然な感興を描くことが重んじられ、中国で元代に一定の様式をもつようになった。明代末、董其昌(とうきしょう)らがこの系譜を南宗画と称してからは南宗画と同義となり、日本には江戸時代に入り独自の発達を遂げた。→南画

出典:小学館
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:田中牧郎、曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典 第2版

ぶんじんが【文人画】
中国における文人,士大夫(したいふ)の絵画。職業画家の専門の絵画に対して,儒教や詩文の教養を備えた文人の素人の絵画をいう。中国では書と画において筆墨を共用し,かつ筆法が共通するところから,日ごろ書に親しむ文人が画を手がけやすい傾向にあったが,特に水墨画が流行すると,多くの文人が画筆をとり,これに持ちまえの詩文の要素を加味することによって,世界に例のない教養人としての芸術が生まれた。 この文人画の起源について,単に文人の画という意味で,古く六朝時代の顧愷之(こがいし)や宗炳(そうへい)にまでさかのぼる意見があるが,文人が職業画家との違いをはっきり意識し,独自の芸術を展開したのは北宋以後のことである。

出典:株式会社平凡社
Copyright (c) Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo. All rights reserved.

日本大百科全書(ニッポニカ)

文人画
ぶんじんが

文人、すなわち士大夫(したいふ)階級を主とする知識人が、自らの娯(たの)しみのために余技的に描いた絵画。描き手の身分によって絵画を分類した概念で、本来は絵画の様式や主題、形式、技法などを規定しないが、中国では明清(みんしん)時代以後、職業画家の絵よりも価値あるものとする見方があり、現在にまで至っている。

 書と画はともに筆墨の芸術であることから、書画は同源より分かれた表現形式を異にする芸術という思想も古く、著名な詩人や書家が画筆をとった事例は少なくない。そのもっとも早い例は後漢(ごかん)時代の蔡邕(さいよう)(2世紀後半)までさかのぼるが、文人画家が輩出するのは貴族文化が高度に発達した六朝(りくちょう)時代(3~6世紀)になってからで、書聖王羲之(おうぎし)も画をよくし、『女史箴図(じょししんず)』などの伝称作が現存する顧愷之(こがいし)は異能の士人であった。

 五代から北宋(ほくそう)前期に山水画を中心とする水墨技法の大きな発展がみられ、北宋中期(11世紀後半)には絵画の芸術的価値が詩文や書に匹敵するに至った。また、科挙試験の師弟、同門関係などで結び付いた士人グループが形成され、彼らは積極的に絵画制作に関与し、絵画理論にも熱意を示した。すなわち、絵画の第一義を気韻生動(きいんせいどう)に置く六朝以来の画論を発展させ、写意を目的として、蘇軾(そしょく)、文同(ぶんどう)らは枯木竹石をもっぱら描き、墨竹を完成させ、自らの心情を絵画に託した墨戯を行った。それらは多く画面上に画家自身や友人の題賛が書き込まれ、跋(ばつ)が加えられた。このような名家による詩文、書、画の三つが一体となったものを詩書画三絶とよび、中国知識人の理想とする。

 また、文人画家は伝統を尊重し、復古主義の立場より、李公麟(りこうりん)は白画(はくが)を復興し、同じく北宋後期の米芾(べいふつ)・米友仁(べいゆうじん)父子は五代の董源(とうげん)の山水画様式を再興した。

 南宋時代(1127~1279)は画院画家とよばれる宮廷所属の職業画人の精緻(せいち)な絵画の時代であったが、元代初めの趙孟頫(ちょうもうふ)が復古主義を提唱し、後世の文人画の方向を示し、これを受けて元代末期(14世紀なかば)には黄公望(こうこうぼう)、呉鎮(ごちん)、倪瓚(げいさん)、王蒙(おうもう)の元末四大家が現れ、文人画を様式的に規定した。この時代になると、文人画は山水画と墨竹墨梅などの墨戯に限られるようになる。明代(1368~1644)前半は粗荒な画風の浙派(せっぱ)職業画人の時代であったが、中期にはふたたび沈周(しんしゅう)、文徴明(ぶんちょうめい)らの呉(ご)派文人画家が活躍し、末期には董其昌(とうきしょう)らの文人たちが絵画芸術における自らの正統性を証明するために、強引ともいえる文人画論(文人画の系譜を南宗画として主張し、職業画家の系譜を北宗画として排撃した南北二宗論)を展開した。これが後世に与えた影響はきわめて大きいが、整合性のある理論とはいいがたい。

 禅余画家は文人画家とは認めえないし、売画で生活する文人画家も本来ありえないが、清代初めの遺民画家(旧宗室出身の八大山人(はちだいさんじん)、石濤(せきとう)ら)や同中期の揚州八怪(ようしゅうはっかい)などは文人画家として扱われることが多い。

 朝鮮でも李朝(りちょう)時代に水墨による文人画が栄えるが、日本の江戸時代の文人画は中国の文人画と異質な点が多く、南画とよぶべきであろう。

[藤田伸也]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

精選版 日本国語大辞典

ぶんじん‐が ‥グヮ【文人画】
〘名〙 文人が趣味として描いた絵。元来は様式を示す語ではないが、中国、元末の四大家(黄公望・王蒙・倪瓚・呉鎮)以後一定の様式をもつようになり、南宗画と混同される。現在はこの意味で使う場合が多い。筆意や墨色を重んじ雅趣に富む。多く水墨もしくは淡彩。日本では、江戸時代中期以降、その影響を受けつつ独自の様式を確立した。これを南画と呼んで区別する場合もある。
※美術真説(1882)〈フェノロサ〉「文人画に就て人心を感ずるは」

出典:精選版 日本国語大辞典
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

旺文社世界史事典 三訂版

文人画
ぶんじんが
文人らが余技的に描いた絵画
元代以来,様式が流派化されて,様式語の南宗 (なんしゆう) 画と同義に用いられた。

出典:旺文社世界史事典 三訂版
執筆者一覧(50音順)
小豆畑和之 石井栄二 今泉博 仮屋園巌 津野田興一 三木健詞
 
Copyright Obunsha Co.,Ltd. All Rights Reserved.
それぞれの項目は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

旺文社日本史事典 三訂版

文人画
ぶんじんが
江戸時代,文人が余技に描いた絵
文人画は技巧にとらわれず気韻生動を重んじる。南画と同義に用いられることもあるが,文人画は身分的立場からの呼称であり,南画は様式上(北宗画に対し)からの呼称である。日本の文人画は江戸中期ころから盛んになり,池大雅・与謝蕪村らが確立した。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
執筆者一覧(50音順)
金澤利明 竹内秀一 藤野雅己 牧内利之 真中幹夫
 
Copyright Obunsha Co.,Ltd. All Rights Reserved.
それぞれの項目は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

文人画」の用語解説はコトバンクが提供しています。

文人画の関連情報

他サービスで検索

(C)The Asahi Shimbun Company /VOYAGE MARKETING, Inc. All rights reserved.
No reproduction or republication without written permission.

アット・ニフティトップページへ アット・ニフティ会員に登録

ウェブサイトの利用について | 個人情報保護ポリシー
©NIFTY Corporation